昭和29年(1954年)
平成22年 4月 1日更新
(おことわり)
お名前・作品名などの表記にあたって、第2水準にない漢字はカタカナとなっています。
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我国の工芸は優れた伝統をもっている。伝統的な日本工芸の優秀なことは、ひろく世界各国から認められているが、時の流れに押されて、この優れた伝統が絶えようとしている。
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(記載の住所は割愛)
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木村文二(雨山)
2-10343-000-001-00002
友禅訪問着(木村雨山氏)
京友禅、加賀友禅といっても、今日では昔のようにはっきりとした色彩や意匠のちがいはなくなっているが、古来この地にも京都と同じく、友禅染の正統な流れが高い格調をくずさず今猶続けられている。気骨ある加賀文化の伝統の然らしめたものであろう。 木村雨山氏は友禅を修め現代加賀友禅界の第一人者である。 |
2
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田畑喜八
2-10341-000-001-00006
友禅黒留袖(田畑喜八氏)
2-10342-000-001-00007
友禅振袖(上野為二氏)
田畑喜八氏は幸野楳嶺に師事現代友禅界の最古老であり、上野為二氏は父清江氏に指導をうけた京都友禅界の重宝である。 |
3
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山田栄一
近世染色工芸の華ともいうべき友禅染に模様を描く時輪郭にそって糊置をする方法に、糊をチューブ様のものに入れてこれを絞り出して描いて行く筒糊と、この揚子糊の方法とがある。 揚子糊は腰の強い独特の糯米糊を用いて、これを短かい棒の先に巻きつけ、これを細く引き延し乍ら布の上に置いて行くやり方で、手先の加減によって極く微細な線から或る程度太い線まで自由に描出され、且、一本の線にも太細のアクセントがつけられる処に筒糊に見られぬ妙味がある。技法的には筒糊よりも古くから行われていたもののようであるが、ただ熟練を必要とし、技術的に困難なところが多いため、明治中期以後は急速に衰頽して、現在はわずかに命脈を保っているにすぎない状態である。 |
4
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小宮康助
2-10349-000-001-00001
江戸小紋地落双葉葵
2-10349-000-001-00001-1
江戸小紋製作(小宮康助氏)
小宮康助氏は明治、大正、昭和にかけて滔滔たる生産の機械化、安易な量産化の浪に抗して、よくこの江戸小紋の伝統を護り続けて来た人である。七十を越す老齢だが、今なおかくしゃくとして自ら製作に従事し、且後進の指導に鋭意つとめている名人である。 |
5
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2-10350-000-001-00004
長板中形地白型付(松原定吉氏)
2-10351-000-001-00005-1
長板中形付製作(清水幸太郎氏)
長板中形の特長は、生地を半反ずつ長さ約三間の張板に張って、これに型紙をおいて片はしから順次に糊を置いて行くところにある。これは大体小紋と同じであるが、小紋は引き染であるから、片面糊でいいが、長板中形は浸け染をするので、裏面からも糊を置かなければならない。すなわち片面に糊を置いた生地を乾燥した後裏かえして裏面から型紙を逆にあてて表の模様と一分のずれもなく合致するように糊を置いて行かなくてはならない。一枚型でも表裏で二回、まして一つの模様に二枚の型紙を必要とする、いわゆる「追っかけ」の二枚型では四回の糊置きを必要とする。したがって普通のものでも一日三反から五反一寸手の込んだものだとまず一日一反がせいぜいである。しかもこの糊置きしたものを一反ずつ甕につけて染めて行くという手のかかる技術である。 長板中形は非常に時間と労力を必要とするもので、而も長年に亘る技術の修練がいるのだから、技術も簡単だし、量産のできる手拭中型に押されて衰亡の一途をたどっている。手工芸による独特の味のよさがあるにもかかわらず、生産量が極めて少く、これに従事する技術者も次第に減少して行く傾向のあるのは洵に惜しいことである。 |
6
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六谷紀久男
伊勢白子の型紙彫りの技術のうち錐彫りは、道具彫とともに最も古い裃紋様の形式を伝えているものといえる。これに用いる道具は切口の半円形の細い錐一つで、これを用いて、鮫、霰などの紋を彫って行く。技術は一見簡単な様に見えるが、同じ大きさに丸く抜いた紋様がびっちりつながっているだけに、一寸のムラも目につき易く、少しもごまかしがきかない。したがってこれを作るには息の塞る様な緊張を必要とし、少しでも手をぬくというわけにゆかない。極く細かいものになると一寸平方に八百から九百という孔を開ける。こうなると数枚重ねた紙に一寸したズレがあっても出来ない。一枚の型紙を彫り上げるのに大体半月位かかるが、仮に十四日目に錐の孔が一つ誤って二つ繋ってしまったとしたら十三日間の苦心は全く水泡に帰してしまう。 型紙彫りの技術は小紋、中形と不即不離の関係にある。これがなくては小紋、中形の技術は成りたたない。また小紋や中形の技術が低下して、細かい型が使えなくなれば、型紙の技術も衰頽の他はない。 近年工芸技術は一般的にいって、こうした昔ながらの高い格調のある仕事が次第に影をひそめて行く傾向にある。小紋型の伝統は伊勢の白子にわずかにのこり、数人の優れた技術者がいるだけで、貴重な伝統的な工芸技術だといえる。 |
7
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児玉 博
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8
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中島秀吉
今日までこの土地だけに特別の技術が残ってきたのは古い伝統によるのであろうが、こういう技術を身につけた技術者は、流石に五指を屈するに足らず、またこの技術は修練によってのみ得られるものだけに、後継者の養成ということが技術存続の上の大きな問題であろう。 |
9
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南部芳松
突彫というのは主として浴衣染の中形を彫る技術で、刄を向こうにして垂直に立てた彫刀を腕と右頬にあて、前へ前へと彫り進んで行く技法である。このため昔は突彫の職人は右の頬に黒いあざが出来、外を歩いていてもすぐに突彫りの職人だとわかったほどである。 現在、型友禅や注染浴衣などの比較的荒い仕事をする職人が白子にも沢山いるし、また他の土地にも相当いるが 、突彫で本格的な仕事の出来る技術者は特に少い。適当な後継者がなければ、遠からずこの技術は衰亡のおそれがあり、保護助成の必要が痛感される。 |
10
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城之口みえ
糸入れというのは、縞彫りに欠くべからざる附随的な仕事で、型紙に縞を彫った場合、そのままでは細い紙がぺらぺらして使えないので、これを二枚合せてその間に細い絹糸を斜に細かく菱形に交叉して入れ、二枚の型紙を柿渋ではり合せる技術をいう。把えどころのないような薄い紙を二枚合せて、上下の縞を一分一厘のズレもなく合せるだけでも容易な仕事ではない。ましてその間へ糸を入れてこれをはり合せるのだから、まことに至難な仕事である。近年は紗張りという方法が工夫され、糸入れの技術もそれほど必要でなくなり、現在白子でも上手にこの技術の出来る人は一人か二人である。この技術がなくなったらもうあの細い粋な縞小紋もできなくなってしまうわけで、伊勢型紙の技術のうちでも、じみではあるが欠くことのできぬ重要な技法といわなければならない。 |
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黄八丈技術保存会
黄八丈が他の地方の縞織にくらべて特に古格をもっているのは、八丈島という地理的に辺鄙な端境にあるためもあるが、また黄八丈を作るためのいろいろの原料が八丈島にあるということを忘れたはならない。すなわち、絹糸は我国有数の良質の種繭の産地であり、黄色染料の「八丈かりやす」樺色の原料である「まだみ」黒の原料の「椎」の樹皮などすべて八丈島に産し、媒染もこの島に多い榊や椿の灰汁を用い、原料はすべて八丈島のものを用いている。 これは黄八丈が今なお数百年の伝統を奇跡的に保持し、昔の儘の純粋な植物染料、手織りという古格のある技法を伝えている何よりの原因であり、本場黄八丈の名を高からしめている所以でもあろう。 |
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小千谷縮布技術保存会
織機は居据機(いざりばた)と称する足引式の最も素朴な様式のもので、これを用いなければ糸が切れて上質のもので、これを用いなければ糸が切れて上質のものは織ることができない。また冬期雪のある時期に紡糸、織製が行われるのは、冬の長いこの地方の農閑期の手工芸として発達したためだが、積雪のもたらす適度の湿気が必要の条件であることも見逃してはならない。糸や布を曝すにも雪の上に拡げていわゆる「雪曝し」をする。 つまり越後縮は昔から天然、人為の生産条件が凡てこの土地に備っているということができ、他の地方のものに見られない独特の伝統的な風趣を持っている。ただその生産の形態が昔乍らの手づくりで、大量の機械生産と全く相容れぬものであるために、いわゆる「本製もの」は次第に衰微の一途を辿って、その技術もわずかに年配者によって保持されている状態であるのは惜しいことである。 |
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栗山文次郎
秋田県花輪の紫紺、茜染は、昔からこの地方が原料に恵まれているため、比較的後までつづいてきたが、これも今では煙滅の寸前にあるといってい。紫根染、茜染は地方地方によっていろいろの方法があったらしいが、この地に残っている技法は特に手のかかるもので、裂をにしこりの灰汁で数十回処理し、これをその年は枯らし、翌年の春これに染料をまた数十回かけて仕上げるという方法を用い、完成するには約一年半を要する実に手数のかかる染色である。 |
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深見重助
2-10354-000-001-00008-1
唐組(深見重助氏)
三百数十本の色糸を互に交錯させて編組して行くこの技術は、時間と労力のかかることは並大抵ではなく、一本の平緒を組上げるのに数ヶ月乃至一年近くかかり、糸染めを加えれば優に一年以上かかるのが普通である。従って装束などの需要の比較的多かった時代でも唐組の平緒といえば高級な品で、一つのものを大切に父祖代々相ついで用いたものらしく、一般にはドシ織の簡単なものが用いられたようである。 今日装束などというものは殆んど用いられなくなったし、また現在はこの技術を知っているのは深見重助氏だけで、全く後継者もない状態である。恐らく千年の伝統をもった唐組平緒の技術も、本格なものはこれが最後となるのではなかろうか。 |
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喜多川平朗
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森村清太郎
金襴は、元来のその用途が袈裟、表装裂、袋もの、能装束など、高級品に限られているため、金色燦然とした華やかさが賞美されている。然し江戸の中期以後は、種々のものに用いられるようになり、その品質が次第に低下して、真鍮箔などを用いた粗悪品も横行するようになってきた。 表装裂としての金襴、即ち表装金襴は、特に鑑賞品としての品格を具えていなければならず、そのため金襴のうちでも特に高級なものが選ばれている。京都の西陣にこの優れた技術が維持されてきたことは、まことに喜ぶべきことで、表装がなくては鑑賞の出来ない、日本画のためにも心から慶祝すべきことである。 |
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広場治左衛門
刻々に流動し変化して行く水の上の紋様の動きを、瞬間的にとらえたものであるから、そこに間髪を入れない技術上の手練を必要とし、また人意や人功では現わし得ない巧みな自然の線と色との微妙な交錯が見られるわけでもある。 昔さかんに行われたこの技術も、今日ではこれを知っている人は殆んどなく、わずかに福井武生町の広場家に一子相伝の秘法として伝わっていりだけである。 |
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8-00001-000-001-00017
木版画・「対鏡」
下絵・伊東深水氏
明治以後我国の木版画はいろいろの面で大きな変化があったが、伝統的な技術は今猶保たれている。伊東深水、川瀬巳水氏などの下画、これの版下彫りをする前田謙太郎、摺師の斧銀太郎氏などによってうけ継がれ、幾多の傑作が作られているのは輝かしい伝統を飾るものとしてまことに慶ばしいことである。 |
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(面竹)岡本正太郎
よく枯らした桐材を彫刻して体を作り、これを胡粉で何回となく塗りあげて後と出したもので、一見型抜きの数ものと異なるところがないように見えるが、制作工程は全く違い本格的なものには磨きのかかった深味と気品が感ぜられる。 |
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(面庄)岡本庄三
胴体は木彫のものもあるが紙の張子でできた軽いのもある。手足は蝶番式で、合せ目の加減で坐った形できちんときまるようにできている。製作に手間がかかるのと、人形を玩ぶ子供の好みが変わってきたので、近年は殆んど姿を見なくなってしまったが、数ある日本人形のうちで、衣裳着せつけ人形の一つのタイプとして逸することの出来ないものである。 |
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平田恒雄(郷陽)
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7-00063-000-001-00013
泥七宝・茶筅文花瓶(早川義一氏)
我国にある古い七宝としては、正倉院にある御物七宝鏡をはじめ、琴、太刀、鎧、建築金具(引手・鈕等)いろいろとあり、我国にも奈良時代以来の古い伝統がある。 現在名古屋市及びその郊外の七宝村に伝わっている七宝技術は、天保年間尾張の人梶常吉が興したものといわれ、その後独逸人のワグネル、安藤重兵衛などによって改良され、我国も七宝の産地として世界的に有名になっている。 七宝にはその素地の種類で銅胎、銀胎、陶胎七宝、又素地の扱い方即ち素地に穴をあけて七宝釉を施こす透胎七宝、素地を最後に取り除いて仕上げる省胎七宝、透明な色剤を用いる透七宝、不透明な色剤を用いる泥七宝、乳白釉七宝、色と色との間に針金を埋めて焼き上げる有線七宝、針金を用いない無線七宝、又釉を盛り上げて仕上げる盛上七宝などの区別がある。 |
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銅鑼 魚住安太郎(為楽)
銅鑼は打出す音色のよさ、余韻の長さによってその価値がきめられているが、優れた銅鑼を作るには、原型、錫と銅との合金比率、砂張鋳造、熱処理、鎚打、着色など、すべての技術が綜合的に優秀でなくてはならない。また道具を扱う「こつ」、音色への特に敏感な聴覚を必要とし、その製作は極めて困難なものとされている。 金沢に住む魚住安太郎は銅鑼作りの名人として知られ、生涯を銅鑼作りに捧げた人で、何人の追随も許さない独特の技術をもち、氏の作った銅鑼が日本一の名銅鑼として有名な、根津美術館所蔵の銅鑼より更に余韻の長かったというのは有名な話である。 |
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故 松波多吉(保真)
塗にはいろいろの技法があるが、基本的な工程は、素地に漆で麻布を張り、その上に漆と火山灰と研粉(とのこ)をまぜたものをぬって形を整え、更に黒漆を三段階にわけて塗り重ねて仕上げたものである。一言でいえばこれだけのことだが、実際には三十三の工程を経て出来上るもので、非常に手間のかかるものである。 近年はこの基本的な技法から転化したいろいろの方法が生れ、また地方地方によって塗りの技術は多種多様であるが、概して簡略化され、正しい塗りの技術は絶えようとしている。 松波多吉氏は基本的な塗りの技術を伝える代表的塗師で、また型べらによる独特の成型方法を創案した名工であったが、去る二月四日急逝されたことは洵に遺憾なことである。 |
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前 得二(大峰)
3-10266-000-001-00015
沈金・花鳥手箱(前 大峰氏)
沈金のことを中国ではソウ金(そうきん)とよび、宋から元、明初にかけては盛んだったようだが、中國ではその後この技術は絶えたようである。 我国には室町時代に伝わり、石川県の輪島には享保年間伝わったといわれている。幕末の天保頃、藩主の保護によって工具、技法が改良され、またカ福講とよんでいる共同作業組織も生れ、塗りと相俟って輪島では沈金の技術が特に発達した。輪島の沈金には線刻・点刻・素刻(すぼり)などの技法があるが、今日輪島だけに伝わっている特別の漆芸で、前氏はその代表的技術者として知られている。 |
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蒔絵はその技法からいろいろに区別されてをり、漆で絵を描き、その上に金銀粉を蒔いて磨き上げたのを平蒔絵とよび、漆をうす高肉に盛り上げて、金銀粉を蒔いたものを高蒔絵、金銀粉を蒔き、その上に漆を塗込んで研上げたものを研出蒔絵とよんでいる。この他貝や金属を貼付けたものだとか、流派によっていろいろ技法のちがいがある。蒔絵の流派には幸阿弥、五十嵐・琳派・是真派などがあり、それぞれ表現様式を異にしているが、このたび陳列した工程見本は帝室技芸員故白山松哉氏の門人である、高野松山氏が作製したものである。 |
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キンマ 磯井雪枝(如真)
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存清 香川 勇(宗石)
沈金・キンマと同じように、漆器の線刻表面加飾法の一つで、室町時代中国から学んだ技術とされている。 存清はキンマと同じく、室町時代中国から将来したものを茶人が特に愛玩しているが、江戸時代讃岐の人玉楮象谷が工夫考案してそのボウ作(ぼうさく)に成功した。爾来香川県高松市附近にその技術が伝わり、同地方独特の技術として発達している。 |
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故 松波多吉(保真)
3-00344-000-001-00016
乾漆二十四花弁菊花形平棗(故 松波保真氏)
3-00344-000-001-00016-1
乾漆平棗製作(故 松波保真氏)
故松波多吉氏はこの伝統的な技術を更に深く研究し、いろいろの形の「へら」を創案し、これを組合せて独創的な乾漆張抜の成型方法を考案した。氏の優れた漆を塗る技術、乾漆法とともに、我国漆芸の代表的な技術といえよう。松波多吉氏は始め印篭塗師としてたち、その後乾漆形物に多年深い研究をかさね、漆技術の第一人者としてキュウ漆(きゅうしつ)の伝統を一段と高めた功績は多大である。 |
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河面冬一(冬山)
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小宮又兵衛
これを大別すると、蒔絵を描く筆(鼡の脇毛、兎の毛其他)、金銀粉を蒔き、またはこれを掃きよせる「あしらい毛棒」(馬の尾毛其他)、塗決み用の刷毛(狸・兎の毛)、などあり、種別・用途によって毛の選択・あつかい方、製作方法などがちがっている。 蒔絵は今猶相当優れた技術者があるが、蒔絵工具の製作は、材料の缺乏、選択のむずかしさ、秘伝とされているその処理法などのため、優秀な技術者は極めて少ない。小宮又兵衛氏は名人として知られ、滅びゆくこの技術の代表的な工人とされている。 |
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木内友吉(省古)
5-01138-000-001-00014
正倉院御物・木画雙六局模造(木内省古氏)
5-01138-000-001-00014-1
同上製作(木内省古氏)
その後、紫檀、黒檀、牙、甲角など奈良時代に舶載されていたものの入手が困難になったためか、木画の技術はだんだんに衰え、現在は極く小数の人がこの技術を伝えているだけである。 木画はいろいろの色に染めた牙、角、木、竹などの細片を木地に象嵌し、これで文様を描く方法で、細い棒状のいろいろの材料を、霰、花、矢羽などに組合せて、小口から薄くそぎ、これを象嵌する方法と、紫檀、桑などを菱形、格子に切り、これを取合わせて箱などに貼る方法とがある。 木内省古氏は父祖代々木画の名家として知られ、正倉院御物の写しなどに非凡な手腕を示されている。 |
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高橋金市(貞次)
刀はその性質上「折れず」「曲らず」「切れる」と言うあいむじゅんした条件を同時に満足しなくてはなりません。 日本刀の製作技術はこうした困難な要求のもとに各時代の刀匠の苦心によって高い境地に達したものであります。 |
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荒川豊蔵
1-11023-000-001-00009
志野(荒川豊蔵氏)
1-11023-000-001-00009-1
志野製作(荒川豊蔵氏)
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35
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荒川豊蔵
1-11023-000-001-00012
瀬戸黒茶碗(荒川豊蔵氏)
荒川豊蔵氏は古志野のボウ作(ぼうさく)とともに、瀬戸黒の作製にも他の追随を許さない独得の技術をもち、古い瀬戸黒と全く区別のつかない釉薬、作風のものを作り、瀬戸黒作製の第一人者とされている。 |
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加藤唐九郎
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金重陶陽
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石黒宗麿
1-11017-000-001-00010
木の葉天目茶碗(石黒宗麿氏)
石黒宗麿氏は多年宋風の天目の再現に苦心し、木葉天目、柿天目、黒定、河南天目などの◎作(ほうさく)に、他の追従を許さない技術をもっている。また唐三彩、均窯、絵高麗、三島、刷毛目、唐津等の写しも、古器と全く区別のつかない美しい釉薬を調合し、轆轤にも非凡な手腕をもつ名工として知られている。 |
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宇野宗太郎(宗甕)
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加藤 一(土師萌)
1-01019-000-001-00011
黄地虹彩(加藤土師萌氏)
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今泉今右衛門
色鍋島は素地は大川内の御用窯で焼き、絵付は有田で施したと伝えられている。始め藩命をうけて柿右衛門がこれに従っていたが、後には赤絵町の今泉家も色鍋島の上絵附を業とするようになった。今泉家と色鍋島との関係は五代平兵衛の時からだといわれ、爾来明治四年廃藩とともに鍋島焼の廃窯となるまで世襲の家業とされていた。鍋島焼は明治の初め会社組織でその再建を試みたが、遺憾ながら遂に廃絶に帰した。十代今右衛門はこの名窯の伝統を保持したいと大正初年その復興を志し、十一代及び当十二代今右衛門は更に苦心研究して戦前には江戸時代の色鍋島に劣らない優れた磁器を焼き、その卓抜な技術は内外識者の賞賛を博していた。今次の大戦とともに材料の不足、技術の低下などで再びその作風が乱れていたが、最近漸く旧に復し、経営の困難を冒して、伝統の保持につとめている。 |
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徳田八十吉
徳田八十吉翁は、既に八十餘の高齢だが、九谷焼の上絵付に最も深い長い経験をもつ人で、代表的な技術者として知られている。 |
無形文化財選定工芸家芳名
(記載の住所は割愛)
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喜多川平朗 明治31年 7月15日生
山本熊太郎 明治29年 1月 2日生
羅の技術は僅かに両氏によって保たれており、昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
森村清太郎 明治24年 9月24日生 隅田定治郎 明治21年 9月 3日生 広瀬信次郎 明治29年10月31日生
上の三者により表装金襴の高度の技術が保持されている。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
広場治左衛門 明治33年10月10日生
明治33年10月10日武生町に生る。墨流しの技法は古く扇面古写経の中にもあり、氏は代々この技術を伝承し、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
井尾浅次郎 明治21年 4月23日生
明治21年 4月23日生る。烏梅は一種の媒染材で植物染にはこれによって初めて発色するもので、この技法は氏によってつがれ、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
岡本正太郎 明治28年 7月 5日生
明治28年 7月 5日京都に生る。四代面竹として御所人形を製作し、技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
野口光彦 明治29年 2月23日生
明治29年東京に生る。父清雲斎に師事し、文日展等に出品し、その間審査員を委嘱さる。昭和28年11月御所人形技術保持者として選定せらる。
岡本庄三 明治43年 4月20日生
明治43年 4月20日京都に生る。十三世面庄として三ッ折人形をよくし、技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
平田恒雄(号郷陽) 明治36年11月25日生
父初代郷陽並に安本亀八に師事し、生人形の技術を習得、昭和28年11月衣裳人形技術により無形文化財として選定せらる。
魚住安太郎(号為楽)明治19年12月20日生
明治19年12月20日小松市に生る。銅鑼の研究に打込み、ついに完成させる。昭和27年3月無形文化財として選定になる。
高橋金市 明治35年 4月14日生
明治35年 4月14日生、今より約150年前より代々刀鍛であり、本人は現在皇室、神宮の御用刀匠を勤む。昭和27年3月、無形文化財として選定さる。
松波多吉(号保真) 明治14年 4月14日生
明治14年 4月14日金沢に生る。礪波彦太郎氏の処に徒弟入り、後印篭塗師金生の門に入り、そこで技術の基礎になるものを習得する。19才の時東京に移り六角紫水、磯矢完山の経営する明治漆器工場に入り、その間仙台の技術者指導、宮内省主馬寮に奉職し漆工作業に従事する特殊キュウ漆定規を研究し、他の者の追随を許さない作品を残し、昭和27年3月無形文化財として選定さる。
前 得二(号大峰) 明治23年11月10日生
明治23年11月10日輪島に生る。帝文日展出品その間審査員を委嘱され、昭和27年11月沈金の技術により無形文化財として選定せらる。
磯井雪枝(号如真) 明治16年 3月19日生
明治16年 3月19日高松市に生る。帝文日展等に出品、その間審査員を委嘱され、蒟醤技術として最高の技法を保持し、昭和28年3月無形文化財として選定せらる。
香川 勇 明治24年11月11日生
明治24年11月11日高松市に生る。父より存清の技法を習得し、各博覧会に出品し、授賞をうけ現在存清における高度の技術を保持し昭和28年3月無形文化財として選定せらる。
河面冬一(号冬山) 明治15年 2月20日生
明治15年 2月20日岡山に生る。東京美術学校漆工科卆業。再々文帝展に出品され蒔絵の特殊漆芸により、昭和27年3月無形文化財として選定さる。
小宮又兵衛 明治 8年 8月 3日生
明治 8年 8月 3日東京に生る。蒔絵用筆並に工具の製作に一家をなし、又兵衛氏は現在三代目に当る。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
木内友吉(号省古) 明治15年 7月16日生
明治15年 7月16日東京に生る。祖父喜八並に父半古につき木画の技術を習得し、正倉院御物の修理に父と共に当る。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
吉田種次郎 明治 4年 9月12日生
明治 4年 9月12日生れる。古建築には規矩なくしては建築が構成できず、氏はこの高度の技術の保持で、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
小千谷縮布技術保存会
新潟県北魚沼郡小千谷
黄八丈技術保存会
東京都八丈島大賀郷村東京都八丈島支庁内
荒川豊蔵 明治27年 3月23日生
明治27年 3月23日生る。昭和5年美濃焼初期の古窯跡を現住地に発見、これを契機として保存復興に志ざす。桃山時代に変らぬ、志野並に瀬戸黒製作優品を次々造らる。昭和27年3月志野を選定し、又昭和28年11月瀬戸黒を無形文化財として選定される。
金重陶陽 明治29年 1月 3日生
明治29年 1月 3日備前町に生る。古備前の研究をなし、備前焼としては高度の技術を保持している。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
加藤唐九郎 明治31年 1月17日生
明治31年 1月17日生る。織部の研究者として知られ、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
石黒宗麿 明治26年 4月14日生
明治26年 4月14日生る。天目の研究者として知られている。作者は全く不可能とされていたこの技法を発見完成した。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
宇野宗太郎(号宗甕)明治21年 2月 7日生
明治21年 2月 7日京都に生る。陶磁試験所入り、後父仁松氏に師事す。辰砂技術研究の一人者で、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
加藤 一(号土師萌)明治33年 3月 7日生
明治33年 3月 7日瀬戸市生る。帝文日展出品、その間審査員を委嘱され、(黄地虹彩)の上絵付技術により昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
今泉今右衛門 明治30年 9月20日生
明治30年 9月20日有田に生る。代々色鍋島上絵付の技術を業となし、昭和27年11月無形文化財として選定せらる。
徳田八十吉 明治 6年11月20日生
明治 6年11月20日小松市に生る。松本佐平の門に入り陶画を学ぶ。諸展覧会に度々出し優賞を受く、昭和27年11月九谷の上絵付技術により無形文化財として選定せらる。
上野為二 明治34年 4月16日生
明治34年 4月16日京都市に生る。父清江氏により模様図案、挿友禅、一陳糊等を習得し、加賀友禅を加味した独自の境地を拓く。高度の京友禅技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
木村文二(号雨山) 明治24年 2月21日生
明治23年金沢市に生る。帝日展度々出品し、この間数回審査員を委嘱される。加賀友禅の技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
田畑喜八 明治10年 8月16日生
明治10年 8月16日京都市に生る。田畑家は寛政年間より代々京友禅を家業とし、父につき技術習得する。この間幸野楳線嶺竹内栖鳳につき、日本絵を習う。それを友禅に応用し、業界では人望厚く、高度の技術として推奨さる。昭和28年11月無形文化財として選定さる。
山田栄一 明治33年12月17日生
明治33年12月17日生る。揚子糊の技術は氏によって保持されている。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。
小宮康助 明治15年 9月 9日生
明治15年 9月 9日東京に生る。江戸小紋の高度の技術を保持し昭和27年3月無形文化財として選定される。
六谷紀久男 明治40年 2月15日生
錐小紋 鈴鹿市寺家
児玉 博 明治42年10月13日生
縞小紋 鈴鹿市白子
中島秀吉 明治16年 9月 4日生
道具彫 鈴鹿市寺家
南部芳松 明治27年 9月20日生
突彫 鈴鹿市寺家
中村勇二郎 明治35年 9月20日生
道具彫 鈴鹿市寺家
城之口みえ 大正 6年 1月 2日生
鈴鹿市白子
栗山文次郎 明治20年10月17日生
明治20年10月17日花輪町に生る。紫根茜染の製作をなす。昭和28年11月無形文化財として選定せらる。
深見重助 明治18年 3月16日生
明治18年 3月16日京都に生る。唐組の技法は段々衰亡し、氏をおいてなく、昭和27年3月、無形文化財として選定せらる。 |
(第一回 日本伝統工芸展図録より)
製作著作
社団法人日本工芸会
2010