NIHON KOGEIKAI

第一回 日本伝統工芸展

昭和29年(1954年)

平成22年 4月 1日更新


第一回 日本伝統工芸展

(おことわり)
お名前・作品名などの表記にあたって、第2水準にない漢字はカタカナとなっています。


趣旨

 我国の工芸は優れた伝統をもっている。伝統的な日本工芸の優秀なことは、ひろく世界各国から認められているが、時の流れに押されて、この優れた伝統が絶えようとしている。
 我国の手工業や伝統的な工芸技術は、明治三十年頃、近代工業の抬頭とともに衰えをみせたが、爾来近代工業の飛躍的な発展とともに社会の片隅においやられ、あるものはその伝統をたち、またあるものはわずかにその命脈を保っている状態である。今日命脈を保っている伝統的な工芸は、少数の強い信念をもつ人たちが、異常な熱意と、多大な犠牲をはらってわずかにその技術を伝えてきたものである。昭和二十五年文化財保護委員会が設置されると同時に、無形文化財保護の制度が設けられた。無形文化財というのは絵画、書跡、彫刻といった有形文化財に対する言葉で、能、文楽、歌舞伎、舞踊といった芸能と、今回展示するいろいろの工芸技術及びその他の無形の文化的所産を包括する名称である。
 文化財保護委員会は、これらのうち特に価値の高いもので国が保護しなければ亡びようとする伝統的な工芸技術の保護助成のため、昭和二十七年三月以来、無形文化財として四十七種の伝統的な工芸技術を選定し、記録の作製、後継者の養成などが実施されている。然し一般にはどんな技術が伝わり、どんなものが選ばれているのか、まだよく知られていない憾みがあるので、このたび無形文化財に選定されている工芸技術の第一回綜合展を開くことになった。いずれも名人といえる人たちの作でも、特に優れたものが選ばれていて、わが国の伝統的な工芸技術の最高水準を示すものと思う。


第一回 日本伝統工芸展 解説文

(記載の住所は割愛)


加賀友禅

木村文二(雨山)


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友禅訪問着(木村雨山氏)


 江戸時代加賀の金沢が百万石前田の居城として栄え、文化的にもいろいろと江戸に対抗して優れたものを持っていたことは興味深いことである。加賀友禅もその一つである。一体友禅染なるものが加賀が先か、京都が先かといったこともいろいろ論議されている。これはとも角として、加賀には古くから京都の友禅と技術的には殆んど変らない友禅染が発達していた。その特長は臙脂、紫、緑等を多く用いた美しいもので、殊にぼかしの技術を巧みに用いている。
 京友禅、加賀友禅といっても、今日では昔のようにはっきりとした色彩や意匠のちがいはなくなっているが、古来この地にも京都と同じく、友禅染の正統な流れが高い格調をくずさず今猶続けられている。気骨ある加賀文化の伝統の然らしめたものであろう。
 木村雨山氏は友禅を修め現代加賀友禅界の第一人者である。


京友禅

田畑喜八
上野為二


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友禅黒留袖(田畑喜八氏)


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友禅振袖(上野為二氏)


 友禅染は京都の宮崎友禅斎が創始したものと伝えられている。この伝説の是非はともかくとして、京都には三世紀に亙る友禅染の長い伝統がある。この間、技法的にはいろいろこまかい点で多少の変化は認められ、殊に明治以後の洋染料の導入は相当大きな変化を与えている。然し多彩な模様染は、洋染料への切り替えが、或る意味では一層これを華やかなものにしている。日本の美しいきものといえばまず友禅染の振袖が考えられる位で考えようによっては日本を代表する染色工芸技術といっても過言ではない。友禅染は加賀にもあるが、最も本格的な技術がいわゆる京染として京都に残っているのもけだし当然といわなければなるまい。
 田畑喜八氏は幸野楳嶺に師事現代友禅界の最古老であり、上野為二氏は父清江氏に指導をうけた京都友禅界の重宝である。


揚子のり

山田栄一


 揚子のりは友禅染に糊をおく一つの技術である。
 近世染色工芸の華ともいうべき友禅染に模様を描く時輪郭にそって糊置をする方法に、糊をチューブ様のものに入れてこれを絞り出して描いて行く筒糊と、この揚子糊の方法とがある。
 揚子糊は腰の強い独特の糯米糊を用いて、これを短かい棒の先に巻きつけ、これを細く引き延し乍ら布の上に置いて行くやり方で、手先の加減によって極く微細な線から或る程度太い線まで自由に描出され、且、一本の線にも太細のアクセントがつけられる処に筒糊に見られぬ妙味がある。技法的には筒糊よりも古くから行われていたもののようであるが、ただ熟練を必要とし、技術的に困難なところが多いため、明治中期以後は急速に衰頽して、現在はわずかに命脈を保っているにすぎない状態である。


江戸小紋

小宮康助


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江戸小紋地落双葉葵


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江戸小紋製作(小宮康助氏)


 小紋染というのは型紙を用いて生地に防染の糊を置いて、細かい模様を染め出して行く模様染である。古く、桃山時代からこの技法の行われていたことは川越喜多院の職人盡絵屏風に描かれていることによってもわかる。江戸時代には主として武家の裃に用いられていたが、繊細巧緻な作風が江戸人の粋な好みに投じて衣服の模様染としても賞美されていた。生地半反を約三間の張板の上に延べて張り、これに片端から渋紙に紋を彫った型紙を置いて糊を置いて行く。細かいものになると一寸角に七八百の角や丸の模様や、一寸幅に二十数本という細い縞模様を一分一厘のズレもなく送りながら糊置きをする技術はまことに手工芸の極地ともいうべきもので、長いしかも厳しい修練を経て始めて到達し得る境地である。
 小宮康助氏は明治、大正、昭和にかけて滔滔たる生産の機械化、安易な量産化の浪に抗して、よくこの江戸小紋の伝統を護り続けて来た人である。七十を越す老齢だが、今なおかくしゃくとして自ら製作に従事し、且後進の指導に鋭意つとめている名人である。


長板中形

   


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長板中形地白型付(松原定吉氏)


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長板中形付製作(清水幸太郎氏)


 長板中形というのは今日一般に行われている手拭染または注染に対して、長い板の上に生地を張って仕事をする伝統的な浴衣染の方法をいう。中形は元来小紋よりもやや大柄な模様の型なのでよんだものであるが、今日一般には浴衣染の柄として用いられるようになり、中形といえば型染浴衣を意味するようになった。
 長板中形の特長は、生地を半反ずつ長さ約三間の張板に張って、これに型紙をおいて片はしから順次に糊を置いて行くところにある。これは大体小紋と同じであるが、小紋は引き染であるから、片面糊でいいが、長板中形は浸け染をするので、裏面からも糊を置かなければならない。すなわち片面に糊を置いた生地を乾燥した後裏かえして裏面から型紙を逆にあてて表の模様と一分のずれもなく合致するように糊を置いて行かなくてはならない。一枚型でも表裏で二回、まして一つの模様に二枚の型紙を必要とする、いわゆる「追っかけ」の二枚型では四回の糊置きを必要とする。したがって普通のものでも一日三反から五反一寸手の込んだものだとまず一日一反がせいぜいである。しかもこの糊置きしたものを一反ずつ甕につけて染めて行くという手のかかる技術である。
 長板中形は非常に時間と労力を必要とするもので、而も長年に亘る技術の修練がいるのだから、技術も簡単だし、量産のできる手拭中型に押されて衰亡の一途をたどっている。手工芸による独特の味のよさがあるにもかかわらず、生産量が極めて少く、これに従事する技術者も次第に減少して行く傾向のあるのは洵に惜しいことである。


伊勢型紙

六谷紀久男


 伊勢型紙というのは江戸小紋や中形を染める時に使う型紙を作る技術で、伊勢の白子だけに発達したので俗に伊勢型紙とよんでいるが、これを更に錐小紋、縞小紋、道具彫、突彫、糸入れ等にわけている。
 伊勢白子の型紙彫りの技術のうち錐彫りは、道具彫とともに最も古い裃紋様の形式を伝えているものといえる。これに用いる道具は切口の半円形の細い錐一つで、これを用いて、鮫、霰などの紋を彫って行く。技術は一見簡単な様に見えるが、同じ大きさに丸く抜いた紋様がびっちりつながっているだけに、一寸のムラも目につき易く、少しもごまかしがきかない。したがってこれを作るには息の塞る様な緊張を必要とし、少しでも手をぬくというわけにゆかない。極く細かいものになると一寸平方に八百から九百という孔を開ける。こうなると数枚重ねた紙に一寸したズレがあっても出来ない。一枚の型紙を彫り上げるのに大体半月位かかるが、仮に十四日目に錐の孔が一つ誤って二つ繋ってしまったとしたら十三日間の苦心は全く水泡に帰してしまう。
 型紙彫りの技術は小紋、中形と不即不離の関係にある。これがなくては小紋、中形の技術は成りたたない。また小紋や中形の技術が低下して、細かい型が使えなくなれば、型紙の技術も衰頽の他はない。
 近年工芸技術は一般的にいって、こうした昔ながらの高い格調のある仕事が次第に影をひそめて行く傾向にある。小紋型の伝統は伊勢の白子にわずかにのこり、数人の優れた技術者がいるだけで、貴重な伝統的な工芸技術だといえる。


縞小紋

児玉 博


 小紋染や中形染で、一見何でもないように見えるが、実際の技術者にとって容易ならぬ困難な仕事は縞ものである。型は傷みやすいし、同じ幅にまっすぐに併行しているので、一寸でも間隔が違ったり線が曲ればすぐにアラが目立つ。第一ゆがんだまま型を置いたらしまいには型が生地から外れて糊が置けなくなってしまう。こうした型置きのむずかしさは同時に型彫りの難しさでもある。一寸幅に二十本からの細い縞を切って行く細かい仕事になるとそれだけでも容易なことでない。殊に堅縞だと一反の生地に一分一厘の狂いもなく上下が一直線にきっちり合わなくてはならないのだから、型彫り技術のうちでもこの縞彫りは特に至難なものとされている。従って優れた後継者の養成が特に望まれる所以でもある。


道具彫

中島秀吉
中村勇二郎


 江戸時代、伊勢の白子は紀州侯の保護の下に、裃の小紋の型紙を作っていたことはひろく知られている。これにはいろいろの技法があるが、このうち道具彫というのは細かい模様、たとえば四角とか桜の花弁とかの形に作られた突き道具で紋を抜いて行くやり方で、技術者はまずその模様に合った道具を作らなければならない。これが又非常に細かい仕事で、容易なことでない。またその道具をいつも砥ぎすました状態に整備しておかなくてはならないし、万一途中できりが折れて取りかかえたり、又は砥ぎ方が下手で紋様の形がほんの少しでも変ったりしたら何しろ細かい紋様が一面に同じ形に並んでいるのであるから出来上りにむらが出来、不上りとなってしまう。
 今日までこの土地だけに特別の技術が残ってきたのは古い伝統によるのであろうが、こういう技術を身につけた技術者は、流石に五指を屈するに足らず、またこの技術は修練によってのみ得られるものだけに、後継者の養成ということが技術存続の上の大きな問題であろう。


突彫

南部芳松


 伊勢型の技術はいずれも長年にわたる厳しい修練によって得られるものであるが就中突き彫は一本の彫刀で不規則な絵模様を彫っていくので特に困難な仕事とされている。
 突彫というのは主として浴衣染の中形を彫る技術で、刄を向こうにして垂直に立てた彫刀を腕と右頬にあて、前へ前へと彫り進んで行く技法である。このため昔は突彫の職人は右の頬に黒いあざが出来、外を歩いていてもすぐに突彫りの職人だとわかったほどである。
 現在、型友禅や注染浴衣などの比較的荒い仕事をする職人が白子にも沢山いるし、また他の土地にも相当いるが 、突彫で本格的な仕事の出来る技術者は特に少い。適当な後継者がなければ、遠からずこの技術は衰亡のおそれがあり、保護助成の必要が痛感される。


10

伊勢型 糸入れ

城之口みえ


 染織工芸のように、幾人かの人の手で一つのものが完成される場合、その中には必ず非常に重要なものであり乍ら、仕事が実にじみで、いわば縁の下の力持ちのような仕事がある。伊勢型紙の糸入れの技術などもその一つである。
 糸入れというのは、縞彫りに欠くべからざる附随的な仕事で、型紙に縞を彫った場合、そのままでは細い紙がぺらぺらして使えないので、これを二枚合せてその間に細い絹糸を斜に細かく菱形に交叉して入れ、二枚の型紙を柿渋ではり合せる技術をいう。把えどころのないような薄い紙を二枚合せて、上下の縞を一分一厘のズレもなく合せるだけでも容易な仕事ではない。ましてその間へ糸を入れてこれをはり合せるのだから、まことに至難な仕事である。近年は紗張りという方法が工夫され、糸入れの技術もそれほど必要でなくなり、現在白子でも上手にこの技術の出来る人は一人か二人である。この技術がなくなったらもうあの細い粋な縞小紋もできなくなってしまうわけで、伊勢型紙の技術のうちでも、じみではあるが欠くことのできぬ重要な技法といわなければならない。


11

黄八丈

黄八丈技術保存会


 黄八丈は東京都八丈島に古くから伝わってきた縞織物で、室町時代頃から幕府へ上納して来たといわれている。江戸時代には町方でもその素朴でしかもしゃれた縞や格子の柄が賞美され、若い娘の平常衣などに多く用いられた。
 黄八丈が他の地方の縞織にくらべて特に古格をもっているのは、八丈島という地理的に辺鄙な端境にあるためもあるが、また黄八丈を作るためのいろいろの原料が八丈島にあるということを忘れたはならない。すなわち、絹糸は我国有数の良質の種繭の産地であり、黄色染料の「八丈かりやす」樺色の原料である「まだみ」黒の原料の「椎」の樹皮などすべて八丈島に産し、媒染もこの島に多い榊や椿の灰汁を用い、原料はすべて八丈島のものを用いている。
 これは黄八丈が今なお数百年の伝統を奇跡的に保持し、昔の儘の純粋な植物染料、手織りという古格のある技法を伝えている何よりの原因であり、本場黄八丈の名を高からしめている所以でもあろう。


12

小千谷縮

小千谷縮布技術保存会


 越後縮は新潟県小千谷、元日町、塩沢等を中心とした地方で生産されている苧麻を原料とした織物で、江戸時代には幕府へも上納し、夏季の高級衣料として賞用されてきた。夏収穫した苧麻をその冬に農村の婦人たちが手紡し、曝し、糸染めの工程をへて次の各機にかけて織製したものである。
 織機は居据機(いざりばた)と称する足引式の最も素朴な様式のもので、これを用いなければ糸が切れて上質のもので、これを用いなければ糸が切れて上質のものは織ることができない。また冬期雪のある時期に紡糸、織製が行われるのは、冬の長いこの地方の農閑期の手工芸として発達したためだが、積雪のもたらす適度の湿気が必要の条件であることも見逃してはならない。糸や布を曝すにも雪の上に拡げていわゆる「雪曝し」をする。
 つまり越後縮は昔から天然、人為の生産条件が凡てこの土地に備っているということができ、他の地方のものに見られない独特の伝統的な風趣を持っている。ただその生産の形態が昔乍らの手づくりで、大量の機械生産と全く相容れぬものであるために、いわゆる「本製もの」は次第に衰微の一途を辿って、その技術もわずかに年配者によって保持されている状態であるのは惜しいことである。


13

紫根染、茜染

栗山文次郎


 植物染料は染め色に深い味のある美しいものだが、材料、操作、工程などに非常な時間と努力を要し、また多量生産が出来ないために衰亡の一途を辿っている。世界の染色をながめて、日本は今猶植物染料をつづけている最後の国の一つであるが、これが絶えようとしているのは惜しいことである。
 秋田県花輪の紫紺、茜染は、昔からこの地方が原料に恵まれているため、比較的後までつづいてきたが、これも今では煙滅の寸前にあるといってい。紫根染、茜染は地方地方によっていろいろの方法があったらしいが、この地に残っている技法は特に手のかかるもので、裂をにしこりの灰汁で数十回処理し、これをその年は枯らし、翌年の春これに染料をまた数十回かけて仕上げるという方法を用い、完成するには約一年半を要する実に手数のかかる染色である。


14

唐組

深見重助


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唐組(深見重助氏)


 唐組は種類の多い組物の一種で、奈良時代に中国から伝わったものといわれている。その後平安時代になると男子の正装である束帶の劔を吊る平緒に用いたため特殊の発達をしたようである。
 三百数十本の色糸を互に交錯させて編組して行くこの技術は、時間と労力のかかることは並大抵ではなく、一本の平緒を組上げるのに数ヶ月乃至一年近くかかり、糸染めを加えれば優に一年以上かかるのが普通である。従って装束などの需要の比較的多かった時代でも唐組の平緒といえば高級な品で、一つのものを大切に父祖代々相ついで用いたものらしく、一般にはドシ織の簡単なものが用いられたようである。
 今日装束などというものは殆んど用いられなくなったし、また現在はこの技術を知っているのは深見重助氏だけで、全く後継者もない状態である。恐らく千年の伝統をもった唐組平緒の技術も、本格なものはこれが最後となるのではなかろうか。


15

喜多川平朗
山本真太朗


 羅は和訓を「うすばた」又は「あきづし」とよんでいる。中国に漢時代からあった紗のような◎(もじり)組織の更に複雑なもので、我国には七世紀頃伝えられたものとされている。奈良時代から平安時代前期頃にはさかんに作られたものらしく、延喜式には諸国より調貢品として朝廷に納めた記録がある。ただ織製が非常に面倒で手間のかかるため、次第に衰微して、室町時代の中頃(応仁の乱を契機として)には絶滅してしまった。爾来羅は織製不能といわれていたが、昭和のはじめ、正倉院の古裂の模造に苦心した結果、幸い再興されたものである。昨年の伊勢神宮式年に際しても神宝の一つとして奉納されたが、我国の織物のうちでも、特別な技術を必要とするものである。


16

表装金襴

森村清太郎
隈田定治郎
広瀬信次郎


 金襴の技法が中国から伝わったのは古く鎌倉時代とされている。その後室町時代となって、明船が中国の優品を沢山に将来し、ついで我国でも作れるようになり、江戸時代には京都の西陣で外来品を凌ぐ立派なものが織れるようになったと伝えられている。
 金襴は、元来のその用途が袈裟、表装裂、袋もの、能装束など、高級品に限られているため、金色燦然とした華やかさが賞美されている。然し江戸の中期以後は、種々のものに用いられるようになり、その品質が次第に低下して、真鍮箔などを用いた粗悪品も横行するようになってきた。
 表装裂としての金襴、即ち表装金襴は、特に鑑賞品としての品格を具えていなければならず、そのため金襴のうちでも特に高級なものが選ばれている。京都の西陣にこの優れた技術が維持されてきたことは、まことに喜ぶべきことで、表装がなくては鑑賞の出来ない、日本画のためにも心から慶祝すべきことである。


17

墨流し

広場治左衛門


 墨流しというのは、水の上にポツポツと落した墨や紅、藍などが水面にひろがり、自然に描かれた木目彩や流れに似た形を、そのまま紙や裂地にうつし取る方法をいい、平安、鎌倉時代の料紙には沢山にこれを用いたものがある。
 刻々に流動し変化して行く水の上の紋様の動きを、瞬間的にとらえたものであるから、そこに間髪を入れない技術上の手練を必要とし、また人意や人功では現わし得ない巧みな自然の線と色との微妙な交錯が見られるわけでもある。
 昔さかんに行われたこの技術も、今日ではこれを知っている人は殆んどなく、わずかに福井武生町の広場家に一子相伝の秘法として伝わっていりだけである。


18

木版画

   


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木版画・「対鏡」

下絵・伊東深水氏
彫・高野七之助氏
摺・斧銀太郎氏


 我が国の木版画は宝暦、明和の頃、鈴木春信によって完成され、歌麿、写楽、豊国、北斎などが輩出して益々発展した。日本の浮世絵の名は、今日世界的に有名となり、我国独得の木版画技術として、高く評価されている。著名なものであることは伝統的な木版画の美しさを技術的に見ると、画と版と摺り、つまり下画の製作者と版下彫りと摺師の三位一体的な合一によって醸し出されたものだといえる。
 明治以後我国の木版画はいろいろの面で大きな変化があったが、伝統的な技術は今猶保たれている。伊東深水、川瀬巳水氏などの下画、これの版下彫りをする前田謙太郎、摺師の斧銀太郎氏などによってうけ継がれ、幾多の傑作が作られているのは輝かしい伝統を飾るものとしてまことに慶ばしいことである。


19

御所人形

(面竹)岡本正太郎
野口光彦


 御所人形は一名御土産人形ともいわれ昔京都の禁中や公家方から諸侯への土産にされたものだといわれている。また頭大(ずだい)という別名のありように、頭の大きく、丸々と肥った愛らしい幼児の姿を写し、まことに上品な風格のある人形である。
 よく枯らした桐材を彫刻して体を作り、これを胡粉で何回となく塗りあげて後と出したもので、一見型抜きの数ものと異なるところがないように見えるが、制作工程は全く違い本格的なものには磨きのかかった深味と気品が感ぜられる。


20

三つ折人形

(面庄)岡本庄三


 三つ折というのは、体が足首と膝と腰で三つに折れる処から名づけられた名称で、これに着物を着せて坐らせたり立たせたりすることができるようになっている。いわば日本人形のうちで唯一の西洋人形に似た機構を持っている手遊び人形といえよう。
 胴体は木彫のものもあるが紙の張子でできた軽いのもある。手足は蝶番式で、合せ目の加減で坐った形できちんときまるようにできている。製作に手間がかかるのと、人形を玩ぶ子供の好みが変わってきたので、近年は殆んど姿を見なくなってしまったが、数ある日本人形のうちで、衣裳着せつけ人形の一つのタイプとして逸することの出来ないものである。


21

衣裳人形

平田恒雄(郷陽)


 日本人形といえばまず衣裳人形が考えられる程、日本の人形と衣裳とは不可分の関係にある。そしてこの衣裳人形のうちでも衣裳を着脱させるのを目的とした三折人形や抱人形は多分に子供の玩具という性格を持っているが、この衣裳作りつけの人形はいずれかといえば飾って眺める観賞品としての意味が強い。したがってその時々の好みによって多少の相違はあるが、美術的な優品が少くない。殊に江戸末期頃に流行した写実的な生人形の流れを酌んだものには精巧目を驚かすものがある。その後こうした傾向は次第に象徴的な趣を加えて、伝統的な衣裳人形に新しい芸術的な雰囲気が加えられようとしている。世界にも類のない日本人形のうちでも、最も日本人形らしい特徴をもつものだといえよう。


22

七宝

   


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泥七宝・茶筅文花瓶(早川義一氏)


 七宝は金属板の表にガラス質の色剤をもり、これを窯に入れ、熱して溶着させたものである。その起源はエジプトにあるといわれ、中国には漢時代、我国には奈良時代伝えられたものとされている。
 我国にある古い七宝としては、正倉院にある御物七宝鏡をはじめ、琴、太刀、鎧、建築金具(引手・鈕等)いろいろとあり、我国にも奈良時代以来の古い伝統がある。
 現在名古屋市及びその郊外の七宝村に伝わっている七宝技術は、天保年間尾張の人梶常吉が興したものといわれ、その後独逸人のワグネル、安藤重兵衛などによって改良され、我国も七宝の産地として世界的に有名になっている。
 七宝にはその素地の種類で銅胎、銀胎、陶胎七宝、又素地の扱い方即ち素地に穴をあけて七宝釉を施こす透胎七宝、素地を最後に取り除いて仕上げる省胎七宝、透明な色剤を用いる透七宝、不透明な色剤を用いる泥七宝、乳白釉七宝、色と色との間に針金を埋めて焼き上げる有線七宝、針金を用いない無線七宝、又釉を盛り上げて仕上げる盛上七宝などの区別がある。


23

どら
銅鑼

魚住安太郎(為楽)


 銅鑼はもともと中国南方に起こったもののようであるが、古く我国にも伝わり、主として法会、茶会などの時、客の送迎に使用されている。
 銅鑼は打出す音色のよさ、余韻の長さによってその価値がきめられているが、優れた銅鑼を作るには、原型、錫と銅との合金比率、砂張鋳造、熱処理、鎚打、着色など、すべての技術が綜合的に優秀でなくてはならない。また道具を扱う「こつ」、音色への特に敏感な聴覚を必要とし、その製作は極めて困難なものとされている。
 金沢に住む魚住安太郎は銅鑼作りの名人として知られ、生涯を銅鑼作りに捧げた人で、何人の追随も許さない独特の技術をもち、氏の作った銅鑼が日本一の名銅鑼として有名な、根津美術館所蔵の銅鑼より更に余韻の長かったというのは有名な話である。


24

故 松波多吉(保真)


 漆塗は古い伝統をもつ東洋独特の工芸技術で、古く戦国時代や漢時代の遺品のあることは周知のことと思う。もともと器物の保護と美化を目的として起ったものだが、近世は異常な発達をし特に我国に最も優れた技術が伝わっている。
 塗にはいろいろの技法があるが、基本的な工程は、素地に漆で麻布を張り、その上に漆と火山灰と研粉(とのこ)をまぜたものをぬって形を整え、更に黒漆を三段階にわけて塗り重ねて仕上げたものである。一言でいえばこれだけのことだが、実際には三十三の工程を経て出来上るもので、非常に手間のかかるものである。
 近年はこの基本的な技法から転化したいろいろの方法が生れ、また地方地方によって塗りの技術は多種多様であるが、概して簡略化され、正しい塗りの技術は絶えようとしている。
 松波多吉氏は基本的な塗りの技術を伝える代表的塗師で、また型べらによる独特の成型方法を創案した名工であったが、去る二月四日急逝されたことは洵に遺憾なことである。


25

沈金

前 得二(大峰)


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沈金・花鳥手箱(前 大峰氏)


 沈金というのはきれいに塗り上った漆の面に、指頭形の小刀で線彫を施し、これに漆を摺りこんで金箔を置き、綿で押し込んできれいにぬぐったものをよんでいる。
 沈金のことを中国ではソウ金(そうきん)とよび、宋から元、明初にかけては盛んだったようだが、中國ではその後この技術は絶えたようである。
 我国には室町時代に伝わり、石川県の輪島には享保年間伝わったといわれている。幕末の天保頃、藩主の保護によって工具、技法が改良され、またカ福講とよんでいる共同作業組織も生れ、塗りと相俟って輪島では沈金の技術が特に発達した。輪島の沈金には線刻・点刻・素刻(すぼり)などの技法があるが、今日輪島だけに伝わっている特別の漆芸で、前氏はその代表的技術者として知られている。


26

蒔絵

   


 蒔絵は古い伝統をもつ我国独特の漆技術で、鎌倉時代に技術的な基礎が確立され、江戸時代は蒔絵の黄金時代とされている。
蒔絵はその技法からいろいろに区別されてをり、漆で絵を描き、その上に金銀粉を蒔いて磨き上げたのを平蒔絵とよび、漆をうす高肉に盛り上げて、金銀粉を蒔いたものを高蒔絵、金銀粉を蒔き、その上に漆を塗込んで研上げたものを研出蒔絵とよんでいる。この他貝や金属を貼付けたものだとか、流派によっていろいろ技法のちがいがある。蒔絵の流派には幸阿弥、五十嵐・琳派・是真派などがあり、それぞれ表現様式を異にしているが、このたび陳列した工程見本は帝室技芸員故白山松哉氏の門人である、高野松山氏が作製したものである。


27

きんま
キンマ

磯井雪枝(如真)


 キンマとは中国宋代のソウ金(そうきん・我国の沈金)がタイ、ビルマに伝わり、地方化して起った新しい線彫加飾法である。普通は籃胎といって竹で編んだ素地に漆をぬり、これに模様を線彫し、色漆をつめて研ぎ出したものをよんでいる。キンマの語源は普通キンマークから転じたものとされている。タイ地方には昔から檳榔樹の実に石灰をつけ、蔦草の葉に包んで噛む風習があり、これをタイ語でキンマークとよぶとのことである。この嗜好物を入れておく漆の容器をキンマとよんだのがその語源だとされているが、一説にタイの北部のチェンマイという地名がこの言葉の起源だともいわれている。キンマの小さな蓋物類は桃山時代相当南方から将来され、古来香合として茶人が珍重している。江戸時代、讃岐の人玉楮象谷が、いろいろと研究の結果、「こきぼり」(引掻彫)「つきぼり」などの新しいキンマの技術を創案し、爾来高松市を中心に香川県だけに伝わっている特殊な漆芸である。


28

ぞんせい
存清

香川 勇(宗石)


 存清というのは漆の面に色漆で紋様を描き、その輪廓をケン鑿(のみ)で骨描したものをよんでいる。刻線に金泥を埋めたものもあり、埋めないものもある。
 沈金・キンマと同じように、漆器の線刻表面加飾法の一つで、室町時代中国から学んだ技術とされている。
 存清はキンマと同じく、室町時代中国から将来したものを茶人が特に愛玩しているが、江戸時代讃岐の人玉楮象谷が工夫考案してそのボウ作(ぼうさく)に成功した。爾来香川県高松市附近にその技術が伝わり、同地方独特の技術として発達している。


29

乾漆形物の成型

故 松波多吉(保真)


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乾漆二十四花弁菊花形平棗(故 松波保真氏)


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乾漆平棗製作(故 松波保真氏)


 古来乾漆の製作には、型べらを用いて器物の口作り、外形、隅などを正しく作る成型方法がとられている。
 故松波多吉氏はこの伝統的な技術を更に深く研究し、いろいろの形の「へら」を創案し、これを組合せて独創的な乾漆張抜の成型方法を考案した。氏の優れた漆を塗る技術、乾漆法とともに、我国漆芸の代表的な技術といえよう。松波多吉氏は始め印篭塗師としてたち、その後乾漆形物に多年深い研究をかさね、漆技術の第一人者としてキュウ漆(きゅうしつ)の伝統を一段と高めた功績は多大である。


30

蒔絵に応用される乾漆成型

河面冬一(冬山)


 乾漆張抜を蒔絵に応用するこの方法は、江戸時代既に小川破笠が試みているが、河面氏はこれを近代化した独得の技術を創案した。蒔絵の名作の写しを作るには、先ず極く薄い金属板を原型に密着させて雌型をとり、乾漆をこの雌型に押しこんで形を作り、その上に金銀粉を蒔つけて仕上げ、これを器物に張附ける独得の技法である。これは蒔絵の用材と技法の特質を深く研究して創案された新しい技法で、我国キュウ漆(きゅうしつ)の伝統を一段と高めた優れた技術とされている。


31

蒔絵工具

小宮又兵衛


 蒔絵は我国独得の工芸技術として長い伝統をもっているが、これを作るのに使用される工具の種類は極めて多く、これ亦独得の発達をして今日に至っている。
 これを大別すると、蒔絵を描く筆(鼡の脇毛、兎の毛其他)、金銀粉を蒔き、またはこれを掃きよせる「あしらい毛棒」(馬の尾毛其他)、塗決み用の刷毛(狸・兎の毛)、などあり、種別・用途によって毛の選択・あつかい方、製作方法などがちがっている。
 蒔絵は今猶相当優れた技術者があるが、蒔絵工具の製作は、材料の缺乏、選択のむずかしさ、秘伝とされているその処理法などのため、優秀な技術者は極めて少ない。小宮又兵衛氏は名人として知られ、滅びゆくこの技術の代表的な工人とされている。


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木画

木内友吉(省古)


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正倉院御物・木画雙六局模造(木内省古氏)


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同上製作(木内省古氏)


 木画は一種の寄木細工ともいえる伝統的な工芸技術である。正倉院御物のうちにはいろいろに木画を応用した工芸品が沢山にあり、奈良時代には木画の技術は相当発達していたものと思われる。
 その後、紫檀、黒檀、牙、甲角など奈良時代に舶載されていたものの入手が困難になったためか、木画の技術はだんだんに衰え、現在は極く小数の人がこの技術を伝えているだけである。
 木画はいろいろの色に染めた牙、角、木、竹などの細片を木地に象嵌し、これで文様を描く方法で、細い棒状のいろいろの材料を、霰、花、矢羽などに組合せて、小口から薄くそぎ、これを象嵌する方法と、紫檀、桑などを菱形、格子に切り、これを取合わせて箱などに貼る方法とがある。
 木内省古氏は父祖代々木画の名家として知られ、正倉院御物の写しなどに非凡な手腕を示されている。


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日本刀

高橋金市(貞次)


 日本刀鍛刀の技術は和鋼の製作とあいまって古くから我国に伝わる特殊な冶金の方法であります。
 刀はその性質上「折れず」「曲らず」「切れる」と言うあいむじゅんした条件を同時に満足しなくてはなりません。
 日本刀の製作技術はこうした困難な要求のもとに各時代の刀匠の苦心によって高い境地に達したものであります。


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志野

荒川豊蔵


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志野(荒川豊蔵氏)


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志野製作(荒川豊蔵氏)


 志野はやわらかいあたたかい感じのする我国独得のやきもので、桃山時代創始したものとされている。志野のうち古来茶人の特に珍重している志野は天正から慶長にかけ、美濃の大萱・太平・高根等で焼けたものだが、江戸時代の初め我国製陶の中心が肥前に移るとともに、美濃焼は衰微し、志野も桃山時代のような優れたものが作れなくなった。幕末瀬戸に春岱、九郎などの名工が出て志野を焼き、爾来瀬戸の赤津は志野の生産地として命脈を保っているが、桃山時代の志野にくらべると釉胎・器形・作風ともに劣っている。また桃山時代優れた志野を焼いた大萱・太平の窯も、全く世人から忘れさられていたが、昭和五年荒川豊蔵氏はその古窯跡を発見し、大萱の山中に桃山時代と同じ古風な窯を築き、古志野のボウ作(ぼうさく)を志した。爾来二十餘年、人煙稀な山村にこもり、苦心工夫して古志野の名作に劣らない志野が出来るようになったが、氏の非凡な手腕は陶界の等しく認めているところである。


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瀬戸黒

荒川豊蔵


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瀬戸黒茶碗(荒川豊蔵氏)


 瀬戸黒は、志野、織部と同じく桃山時代美濃の大萱・大平・久尻等で作られたもので、渋い強い調子の日本独得のやきものとして古来珍重されている。瀬戸黒は天正時代創始したので一名天正黒ともよび、また焼上ると真赤なうちに窯から引出すので一名引出黒ともよんでいる。一窯に引出す数が限られているので、遺品は比較的少なく、また遺品の大部分は茶碗である。瀬戸黒は幕末以降瀬戸赤津でもいくらか作っているが、桃山時代美濃で作られたものにくらべると遥かに劣っていた。
 荒川豊蔵氏は古志野のボウ作(ぼうさく)とともに、瀬戸黒の作製にも他の追随を許さない独得の技術をもち、古い瀬戸黒と全く区別のつかない釉薬、作風のものを作り、瀬戸黒作製の第一人者とされている。


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織部

加藤唐九郎


 織部は桃山時代、岐阜県の東部土岐郡久尻で創始した我国独得のやきもので、茶人として有名な古田織部の指導で作り始めたので、この名が起ったと伝えられている。織部は銅呈色による緑色の釉薬が特色だが、鉄呈色による黒釉のかかったものを黒織部とよんでいる。織部は自由なやわらかい日本的な特質をもつやきものであるとともに、意匠が頗る斬新警拔で、どこかエキゾティックな感じがある。最も優れたものが作られたのは慶長年間景延が久尻元屋敷窯で作ったものだが、久尻一帶、大平、大萱、姫、笠原などでも織部風のやきものを焼いている。江戸初期以降、美濃の織部は衰微し、寧ろ尾張の瀬戸での織部の方が盛んになり、幕末以後は瀬戸の赤津が織部の主産地として知られるようになった。然し江戸初期以降の織部は形式的にながれ。慶長の織部のような新鮮な溌剌としたところがないが、加藤唐九郎氏は多年織部の研究に力をつくし、慶長時代に劣らない釉色作風の織部を作るようになり、今日織部の第一人者とされている。因みに加藤唐九郎氏は古陶磁研究家としても有名で、瀬戸美濃に関するいくつかの著作がある。


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備前焼

金重陶陽


 備前焼は岡山県和気郡備町で造られる我国で最も古い伝統をもつやきものである。今猶釉薬(うわぐすり)をかけず、鉄分の多い土を焼き締めるだけで、最も日本的な特質をもつやきものの一つとされている。然し備前焼も時代によっていろいろと作風の違いがあるが、古来古備前とよんで珍重しているのは室町末から江戸初期にかけて作られた茶器花生の類で、いずれも素樸重厚な作風のものである。備前焼はその後精巧な置物等を主として造るようになったが、金重陶陽氏は多年古備前風の花生、水指、徳利等の製作に苦心し、今日古備前写しの第一人者とされている


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天目釉

石黒宗麿


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木の葉天目茶碗(石黒宗麿氏)


 黒または茶褐色の釉薬のかかったやきものを俗に天目と呼んでいる。天目は青磁と同じく東洋独得のやきもので、六朝時代中国人が創始したものとされている。唐宋時代には中国各地に沢山天目を焼く窯が起こり、爾来今日でもひろく東洋各地で最も多く焼いているのは天目である。然し天目のうち、古来特に珍重し、また釉薬、形、作風の優れているのは宋代のもので、元以降は見るべき天目が作られていない。
 石黒宗麿氏は多年宋風の天目の再現に苦心し、木葉天目、柿天目、黒定、河南天目などの◎作(ほうさく)に、他の追従を許さない技術をもっている。また唐三彩、均窯、絵高麗、三島、刷毛目、唐津等の写しも、古器と全く区別のつかない美しい釉薬を調合し、轆轤にも非凡な手腕をもつ名工として知られている。


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辰砂

宇野宗太郎(宗甕)


 銅を呈色剤とした、赤い釉薬のやきものを総称して俗に辰砂とよんでいる。辰砂は中国では元時代からあり、明の宣徳、清初の康煕、雍正頃のものが最も尊ばれている。辰砂は我国にも江戸時代からあるが、盛んに焼くようになったのは大正以降で、今日これを作る技術者は必ずしも少くない。然し宇野氏は辰砂及び青磁の調合及び焼成に三十年以上も深い研究をし、独得の技術をもっている人である。宇野宗太郎氏は青磁で有名な宇野仁松翁の長男で、有名な仁松翁の青磁も実際は、宗太郎氏が釉薬の調合焼成に当っていたとのことである。氏が試みた辰砂は何十種類かあるが、ここには二、三の作品と色見本の一部を列べることにした。


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黄地紅彩

加藤 一(土師萌)


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黄地虹彩(加藤土師萌氏)


 黄地紅彩は中国赤絵の最盛期とされている明の嘉靖時代(十六世紀中頃)中国最大の製陶地である江西省景徳鎮窯で作られたもので、絢爛な明の赤絵のうちでも、特に豪華濃麗な上絵付技術である。中国の書物にはこれを雑彩の一つとして挙げているが、その後この技法は絶え、久しくこの釉法によるやきものを見なかった。加藤氏は幾度か失敗の後、漸くその再現に成功した。素地は白磁、これに透明性の白釉をかけて千三百度ほどの高い火度で焼き、その上に低火度の黄釉を全面にぬって比較的高い千度ほどの火度で焼きつけ、その上に赤い上絵具で文様を描き、八百五十度ほどでもう一度焼いたものである。製作工程を示す角鉢を列べたが、明嘉靖の黄地紅彩にこれと同じ形、文様のものがある。


41

色鍋島

今泉今右衛門


 鍋島焼は肥前の鍋島藩が、始め有田の岩谷川に窯を築き、後享保七年西松浦郡大川内山に築いた藩の御用窯で、我国で最も精巧な磁器として世界的に有名である。鍋島焼は青磁、染付にもいろいろ優れた作品があるが、特に有名なのは色絵磁器で、俗にこれを色鍋島とよんでいる
 色鍋島は素地は大川内の御用窯で焼き、絵付は有田で施したと伝えられている。始め藩命をうけて柿右衛門がこれに従っていたが、後には赤絵町の今泉家も色鍋島の上絵附を業とするようになった。今泉家と色鍋島との関係は五代平兵衛の時からだといわれ、爾来明治四年廃藩とともに鍋島焼の廃窯となるまで世襲の家業とされていた。鍋島焼は明治の初め会社組織でその再建を試みたが、遺憾ながら遂に廃絶に帰した。十代今右衛門はこの名窯の伝統を保持したいと大正初年その復興を志し、十一代及び当十二代今右衛門は更に苦心研究して戦前には江戸時代の色鍋島に劣らない優れた磁器を焼き、その卓抜な技術は内外識者の賞賛を博していた。今次の大戦とともに材料の不足、技術の低下などで再びその作風が乱れていたが、最近漸く旧に復し、経営の困難を冒して、伝統の保持につとめている。


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九谷焼

徳田八十吉


 九谷焼は江戸の初期(明暦頃から元禄まで)加賀大乗寺の藩祖前田利治が、藩士後藤才次郎に命じて江沼郡九谷村(山中温泉の奥約四里現西谷村字九谷)で作らせた色絵磁器で、豪華絢爛なうちに、渋い強い調子のある、我国独得の色絵である。九谷焼は元禄頃一たん廃絶に帰したが、元禄以前の九谷焼を俗に古九谷とよんでいる。その後百年餘りして、文化年間、京都の名工青木木米が金沢に窯を築いてから、再び加賀一円で盛んに磁器を焼くようになった。今日九谷焼は我国主要な陶磁器の一つで、特に上絵付の技術が優れている。
 徳田八十吉翁は、既に八十餘の高齢だが、九谷焼の上絵付に最も深い長い経験をもつ人で、代表的な技術者として知られている。


無形文化財選定工芸家芳名

(記載の住所は割愛)

喜多川平朗     明治31年 7月15日生

山本熊太郎     明治29年 1月 2日生


羅の技術は僅かに両氏によって保たれており、昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


森村清太郎     明治24年 9月24日生

隅田定治郎     明治21年 9月 3日生

広瀬信次郎     明治29年10月31日生


上の三者により表装金襴の高度の技術が保持されている。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


広場治左衛門    明治33年10月10日生


明治33年10月10日武生町に生る。墨流しの技法は古く扇面古写経の中にもあり、氏は代々この技術を伝承し、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


井尾浅次郎     明治21年 4月23日生


明治21年 4月23日生る。烏梅は一種の媒染材で植物染にはこれによって初めて発色するもので、この技法は氏によってつがれ、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


岡本正太郎     明治28年 7月 5日生


明治28年 7月 5日京都に生る。四代面竹として御所人形を製作し、技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


野口光彦      明治29年 2月23日生


明治29年東京に生る。父清雲斎に師事し、文日展等に出品し、その間審査員を委嘱さる。昭和28年11月御所人形技術保持者として選定せらる。


岡本庄三      明治43年 4月20日生


明治43年 4月20日京都に生る。十三世面庄として三ッ折人形をよくし、技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


平田恒雄(号郷陽) 明治36年11月25日生


父初代郷陽並に安本亀八に師事し、生人形の技術を習得、昭和28年11月衣裳人形技術により無形文化財として選定せらる。


魚住安太郎(号為楽)明治19年12月20日生


明治19年12月20日小松市に生る。銅鑼の研究に打込み、ついに完成させる。昭和27年3月無形文化財として選定になる。


高橋金市      明治35年 4月14日生


明治35年 4月14日生、今より約150年前より代々刀鍛であり、本人は現在皇室、神宮の御用刀匠を勤む。昭和27年3月、無形文化財として選定さる。


松波多吉(号保真) 明治14年 4月14日生


明治14年 4月14日金沢に生る。礪波彦太郎氏の処に徒弟入り、後印篭塗師金生の門に入り、そこで技術の基礎になるものを習得する。19才の時東京に移り六角紫水、磯矢完山の経営する明治漆器工場に入り、その間仙台の技術者指導、宮内省主馬寮に奉職し漆工作業に従事する特殊キュウ漆定規を研究し、他の者の追随を許さない作品を残し、昭和27年3月無形文化財として選定さる。


前 得二(号大峰) 明治23年11月10日生


明治23年11月10日輪島に生る。帝文日展出品その間審査員を委嘱され、昭和27年11月沈金の技術により無形文化財として選定せらる。


磯井雪枝(号如真) 明治16年 3月19日生


明治16年 3月19日高松市に生る。帝文日展等に出品、その間審査員を委嘱され、蒟醤技術として最高の技法を保持し、昭和28年3月無形文化財として選定せらる。


香川 勇      明治24年11月11日生


明治24年11月11日高松市に生る。父より存清の技法を習得し、各博覧会に出品し、授賞をうけ現在存清における高度の技術を保持し昭和28年3月無形文化財として選定せらる。


河面冬一(号冬山) 明治15年 2月20日生


明治15年 2月20日岡山に生る。東京美術学校漆工科卆業。再々文帝展に出品され蒔絵の特殊漆芸により、昭和27年3月無形文化財として選定さる。


小宮又兵衛     明治 8年 8月 3日生


明治 8年 8月 3日東京に生る。蒔絵用筆並に工具の製作に一家をなし、又兵衛氏は現在三代目に当る。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


木内友吉(号省古) 明治15年 7月16日生


明治15年 7月16日東京に生る。祖父喜八並に父半古につき木画の技術を習得し、正倉院御物の修理に父と共に当る。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


吉田種次郎     明治 4年 9月12日生


明治 4年 9月12日生れる。古建築には規矩なくしては建築が構成できず、氏はこの高度の技術の保持で、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


小千谷縮布技術保存会


新潟県北魚沼郡小千谷


黄八丈技術保存会


東京都八丈島大賀郷村東京都八丈島支庁内


荒川豊蔵      明治27年 3月23日生


明治27年 3月23日生る。昭和5年美濃焼初期の古窯跡を現住地に発見、これを契機として保存復興に志ざす。桃山時代に変らぬ、志野並に瀬戸黒製作優品を次々造らる。昭和27年3月志野を選定し、又昭和28年11月瀬戸黒を無形文化財として選定される。


金重陶陽      明治29年 1月 3日生


明治29年 1月 3日備前町に生る。古備前の研究をなし、備前焼としては高度の技術を保持している。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


加藤唐九郎     明治31年 1月17日生


明治31年 1月17日生る。織部の研究者として知られ、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


石黒宗麿      明治26年 4月14日生


明治26年 4月14日生る。天目の研究者として知られている。作者は全く不可能とされていたこの技法を発見完成した。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


宇野宗太郎(号宗甕)明治21年 2月 7日生


明治21年 2月 7日京都に生る。陶磁試験所入り、後父仁松氏に師事す。辰砂技術研究の一人者で、昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


加藤 一(号土師萌)明治33年 3月 7日生


明治33年 3月 7日瀬戸市生る。帝文日展出品、その間審査員を委嘱され、(黄地虹彩)の上絵付技術により昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


今泉今右衛門    明治30年 9月20日生


明治30年 9月20日有田に生る。代々色鍋島上絵付の技術を業となし、昭和27年11月無形文化財として選定せらる。


徳田八十吉     明治 6年11月20日生


明治 6年11月20日小松市に生る。松本佐平の門に入り陶画を学ぶ。諸展覧会に度々出し優賞を受く、昭和27年11月九谷の上絵付技術により無形文化財として選定せらる。


上野為二      明治34年 4月16日生


明治34年 4月16日京都市に生る。父清江氏により模様図案、挿友禅、一陳糊等を習得し、加賀友禅を加味した独自の境地を拓く。高度の京友禅技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


木村文二(号雨山) 明治24年 2月21日生


明治23年金沢市に生る。帝日展度々出品し、この間数回審査員を委嘱される。加賀友禅の技術保持者として昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


田畑喜八      明治10年 8月16日生


明治10年 8月16日京都市に生る。田畑家は寛政年間より代々京友禅を家業とし、父につき技術習得する。この間幸野楳線嶺竹内栖鳳につき、日本絵を習う。それを友禅に応用し、業界では人望厚く、高度の技術として推奨さる。昭和28年11月無形文化財として選定さる。


山田栄一      明治33年12月17日生


明治33年12月17日生る。揚子糊の技術は氏によって保持されている。昭和27年3月無形文化財として選定せらる。


小宮康助      明治15年 9月 9日生


明治15年 9月 9日東京に生る。江戸小紋の高度の技術を保持し昭和27年3月無形文化財として選定される。


六谷紀久男     明治40年 2月15日生


錐小紋 鈴鹿市寺家


児玉 博      明治42年10月13日生


縞小紋 鈴鹿市白子


中島秀吉      明治16年 9月 4日生


道具彫 鈴鹿市寺家


南部芳松      明治27年 9月20日生


突彫 鈴鹿市寺家


中村勇二郎     明治35年 9月20日生


道具彫 鈴鹿市寺家


城之口みえ     大正 6年 1月 2日生


    鈴鹿市白子


栗山文次郎     明治20年10月17日生


明治20年10月17日花輪町に生る。紫根茜染の製作をなす。昭和28年11月無形文化財として選定せらる。


深見重助      明治18年 3月16日生


明治18年 3月16日京都に生る。唐組の技法は段々衰亡し、氏をおいてなく、昭和27年3月、無形文化財として選定せらる。


(第一回 日本伝統工芸展図録より)



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製作著作
社団法人日本工芸会
2010