NIHON KOGEIKAI

柿渋(かきしぶ)

平成10年11月10日更新


第24回 日本伝統工芸近畿展図録より転載しました。

(平成7年 5月 1日発行)


柿渋(かきしぶ)

 家々の庭先に柿がたわわに実った情景は、すすきの穂が風に揺れる光景と並んで秋のイメージを代表する風景になっている。正岡子規の有名な俳句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は、現代人の心象風景にも強く訴えかける句となっている。それは、何よりも大和の風土に完全に溶け込んだ柿自体の与える印象が大きな影響を及ぼしているためであろう。

 かつて畑の畦をはじめ作物のできないやせた土地などには、小粒の渋柿がたくさん植えられていた。これは食用にするというよりも、柿から渋を取って柿渋を作るのが目的であった。

茶畑の畔に植えられた柿の木

 柿渋の利用は弥生時代まで遡るといわれるが、防水、防腐剤として近年に至るまで日常生活に密着した利用範囲の広い生活必需品であった。

 近世、たとえば京都・大坂といった大消費地には、型紙屋、漆器屋、傘屋、合羽屋、ぼて屋などの需用に応えるため柿渋屋が何件もあった。もちろん、こうした都市のみならずそれぞれの地域ごとに柿渋屋があり、製造に当たってはその地方特産の柿を使った。渋の産地では都市を中心とする多くの需要に応えるため、遠隔地から柿を求めなくても地元で充分供給し得るだけの柿が多くのところに植えられていた。例えば京都近郊では、京都府南部の相楽郡一帯(特に木津町、加茂町、和束町)が昔から柿渋作りが盛んな地域であった。京都のみならず水運を利用して大阪の需要までもまかなっていた。

 現代では、柿渋需要の大半は清酒や酢の清澄剤としてである。これら食料品は透明度の高さが求められるため柿渋を用いる。例えば清酒の場合、白ボケと呼ばれ不透明の原因となるタンパク質が、柿渋のタンニンによって吸着、除去され、澄んだ冴えのある清酒ができあがる。このように、柿渋は清酒を製造する上で欠かせないものとなっている。

 近年、生活様式の変化、化学製品の開発などにより柿渋の需要が激減したため、生産者はずいぶん少なくなった。しかし、工芸の分野に限らず清澄剤あるいは漢方薬など今日的な根強い需要があり、その利用価値は昔と何ら変わるところはない。

1 柿渋の製造

 柿渋製造については、京都府相楽郡和束町在住の岩本亀太郎・将稔さんにお話をうかがった。以下はその概要である。

 7月から9月中旬頃、その年の気候によっては10月初旬頃までの期間、柿の搬入を依頼していた各家々から柿渋工場へ原料となる青柿が持ち込まれる。夏から秋にかけては、渋の含有量が最も多くなるため柿の収穫にちょうどいい時期である。現在では自宅周辺の町内の柿だけでは生産量がまかなえないので奈良、和歌山、岐阜あるいは四国からも購入している。

渋柿の集荷

 集荷された柿は1か所に集められ、ベルトコンベアーを使って裁断機に送り込まれる。この裁断機でまるごと柿を砕くとスクリュープレスという機械で中の果汁をしぼる。出てきた果汁を一番渋と呼ぶが、渋の含有量はこの液が最も多い。一番渋をしぼり終わると、しぼりかすを別の機械に送り、二番渋、三番渋をしぼる。

柿の粉砕

 次に一番渋と二番渋を混ぜるが、これは一番渋だけだと水分が少なく凝固するからである。適当な濃度に調整し、渋の温度を上げ、発酵に不必要な雑菌を熱で殺菌処理する。殺菌が終わると冷却し、発酵タンクで酵母により発酵させるとできあがりで、貯蔵タンクに移し出荷までねかす。雑菌処理をしなかった昔は、発酵させると柿渋特有の鼻をつく臭気が発生したものだった。

 渋はタンクの中で1年も過ぎると茶褐色のいわゆる柿渋色に変化し、古渋として出荷可能となる。以前は1か月の発酵が終わった時点で、新渋と呼んで出荷していたこともあった。

 昭和30年代までは、柿をつぶすために臼を使い、3人ぐらいで横杵を使ってつき砕した。つぶし終わると縦の隙間の空いた木桶に入れ丸太をその上に乗せ一方を固定し、もう一方に人が体重をかけて汁をしぼった。そうした姿は『広益国産考』の「渋を搾る図」や『教草(おしえぐさ)』の「柿油の採取」などの農書からもうかがうことができる。

柿渋の原料となる天王柿

2 用途

 柿渋の用途は実に広く、古来から多くの分野で利用されてきた。工芸に関するものでは、染に用いる型紙や木目をいかした柿合わせと呼ぶ漆器の下地あるいは糸目糊をひく糊筒などでの使用が有名である。生活用品では広範な需要があり、紙子(紙衣)、団扇、合羽、和傘、渋紙など身の回りの品々から漁網あるいは火傷や中風の薬はてはマムシの毒消しに至るまで柿渋が利用されていた。

 以下、柿渋と伝統工芸の関わりをいくつか概観してみよう。

 型紙(型地紙)

 型地紙として用いる紙は、楮のみを使った純生のものが望ましい。まず板張りで天日干し(今は鉄板干しが多い)された白紙を注文に応じて所定の大きさに切るが、これを法(ほ)造りと呼んでいる。次に紙つけと称して同じ大きさに揃えた3〜4枚の紙を繊維の方向が縦横になるようにして柿渋で貼り合わせる。その後乾燥しないように2〜3日寝かして渋を充分に浸透させ、表面に湿り気がなくなると紙張りにはって天日乾燥させる。乾燥後紙を選別して製品を選り分け、表面のちりや混入物を取り除く。こうしてできあがった渋紙は、明治以前までは天井裏に何年間もつるして枯らした。明治13年、北村治兵衛により型地紙をおがくずを使って室でいぶす室入れ燻煙法が開発され工程の短縮と大量生産が可能となった。次にいぶした生紙を柿渋の液に浸すが、これは和紙の繊維の穴をふさぎ、紙の伸縮を止め、地紙の強度を高めるためである。いぶしてつけたヤニを渋で吸着させ、渋つけした紙をしぼって渋とヤニをなじませる。これを天日で乾燥し紙の選別、ごみ取りをすると、さらに室に入れてむらし、しばらくねかすとできあがりである。

 細かく精密な縞彫などの型を彫る場合は、今でも自然枯らしで作った型地紙が必要である。

 漆器

 漆器に用いる漆は、生漆を除くすべての漆が吉野紙を用いて中の塵を取り除いてから使用する。この吉野紙には柿渋を塗っておく。これは漉し紙として丈夫にするためである。

 また、柿渋はキュウ漆における下地行程で、渋下地と呼ばれ使用されている。この渋下地は、安価で堅牢なため漆器の大衆化に大きな役割を果たす一方、素地の木目を生かすため茶道具を中心に好んで使用されている。

 工程的には、柿渋に炭粉や松煙などを混ぜた色渋を数回塗って、渋による下地を作ってからその上に漆を上塗りする。柿渋を利用して下地を作ることを柿合わせ塗りと呼ぶが、柿渋素地は、漆で生地を作るのに比べると堅牢度がやや劣り、はげやすいことから紛(まがい)下地と呼ばれ、低く見られることもある。だが、茶道具をはじめ炉縁など木目を大切にする場合には、柿合わせ塗りが使われることが多く、根強い需要がある。

 糊筒

 友禅染を始めとして、印染、鯉のぼり作りなどに、防染糊を施すために使われる用具で、これをカッパと呼ぶ人もある。糊筒は、柿渋で和紙を円錐形に貼り固めたもので、先端に付ける金具(先金)で糊の太さが調整される。筒の中に糊を入れ、しぼるように力を加えて先から綿状の糊を出す。友禅では極細の描線を好み、これを糸目糊と呼ぶ。

 以上のように、柿渋は工芸の分野に限ってもまだまだ重要な位置をしめている。特に型染に用いる型紙にとって、和紙とともに柿渋は地紙作りの命で、柿渋の良し悪しが型紙の出来上がりを決定するともいわれており、その価値はたいへん大きい。

 (京都府教育庁指導部文化財保護課技師 原田三壽)


特別展示 伝統工芸を支える人々

 協力・資料提供   岩本亀太郎商店
           同志社大学学術情報サ−ビスセンタ−
           出水伯明氏

 協賛        松下電器産業株式会社



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2008