NIHON KOGEIKAI

烏梅(うばい)

平成10年10月27日更新


第25回 日本伝統工芸近畿展図録より転載しました。

(平成 8年 5月 1日発行)


鳥梅(うばい)

月ヶ瀬の梅渓

 明治31年(1898)、奈良県月ヶ瀬村を訪れた田山花袋は「あはれわれは幾年前よりこの月の瀬の梅に接せんことを願ひたりけん。拙堂の文を読み、山陽の詩を誦して、幾度その勝景をわが想像のナカに画きたりけん。否年々梅の咲く頃に至れば、夢はいつもはるばるとこの地に通ひて、香魂曾てこの美しき梅渓のほとりを離れざりき。」と「月瀬紀遊」に書き記した。この拙堂とは、文政13年(1830)に来遊して、月ヶ瀬梅林を本格的に世に知らしめた伊勢津藩の儒者斎藤拙堂で、そのつながりから、翌年頼山陽が訪れる。山陽はこの地で詠んだ絶句の末尾を「悲観和州香世界 人生何説梅花」(和州<大和>の香世界を観るに非ずんば、人生何ぞ梅花を説くべけんや)と結んだ。以来多くの文人墨客が美しい梅渓を求めてこの地を訪れるようになり、その風は今に至るも衰えを見せず、早春の楽しみを人々に与えている。この月ヶ瀬の梅林は、もとは「鳥梅」を造るために植えられたものであった。

鳥梅

 「鳥梅」は、また「黒梅」とも呼ばれたように、梅の実を煙で黒くいぶしたものである。正徳3年(1713)序刊行の百科事典『和漢三才図会』は、鳥梅を布須倍牟女」(ふすべうめ)と説明を施し、その製造法を「造ル法、半黄ナル梅ヲ取テ籃ニ盛リ、突ノ上ニ於テ烟リニ之ヲ薫ヘ鳥梅ト為ス」と記している。この鳥梅は、薬用や染色に古くから用いられてきた。『延喜式』三七典薬寮の条には「中宮臘月御薬」として「鳥梅丸」の名が見えるし、腫れ物や下痢の妙薬として「鳥梅湯」としても用いられた。月ヶ瀬の鳥梅はこれとは別に、専ら紅花染め用や紅用に生産されてきた。口碑では、元弘の乱(1331)の際に笠置から後醍醐天皇が落ち延びてきたとき、女官の一部が月ヶ瀬方面に逃げ、その一人姫若(また姫宮、園生姫)が滞留し、世話になった礼として鳥梅の製法を教えたという。また前田利家が浪々の身の折り、この地を訪れて、天神社境内に多くの梅の実が落ちているさまを見て鳥梅を作り、京都に送ったのに始まるとも言う。江戸時代中期に刊行された先の『和漢三才図会』には、鳥梅の産地としてまず備後三原が挙げられている。山城のものがこれに次ぐとしているが、月ヶ瀬の名はまだ見えない。ところがやや下がって明和年間(1764〜1771)から月ヶ瀬の梅林が紀行文に賞賛され始める。このことから推して、18世紀後半にはかなり梅樹が植えられ、鳥梅の生産量も伸びてきたものと思われる。

 人々は林間の渓谷や空地を利用して梅の木を植え、鳥梅を生産して主な収入源とするようになった。生梅160貫を蒸して乾燥させると約2割止まりの32貫(120g)の鳥梅となる。これを1駄といい、荷馬の背中に16貫ずつ二分して、笠置を越えて京都の染物屋へ送ったという。月ヶ瀬には八谷といって八つのたにがある。一つの谷に1本ぐらいは、1駄の木といって160貫の梅が採れる大樹があった。人々はこの木を称して「1駄木には米7俵がぶら下がっている」といったという。

 平地の少ない急峻な地域の貴重な収入源となっていた鳥梅生産も、明治以降安価な化学染料が輸入されるに及び、需用は激減し急速に衰退していった。明治元年(1868)に月ヶ瀬五大字(尾山・長引・月瀬・桃香野・嵩)で820駄ほどあった生産量も、明治17年(1884)には424駄余りとおよそ半減している。転換を迫られた人々は、梅の木を伐り、桑や茶を植えるようになり、梅林は荒廃の様相を呈し始めた。その後梅林の保護が叫ばれ、保勝会の設立によって名勝の梅林は蘇ったが、鳥梅の製造はほとんど絶えてしまった。それでも第二次世界大戦までは、係わる家がまだ数軒残っていたが、戦後は、一軒のみとなった。

最後の1軒

 鳥梅作りを営む最後の1軒となったのが、月ヶ瀬村大字尾山の中西家である現当主喜祥氏は、大正7年生まれで今年78才。黒梅のおやじ」の愛称で呼ばれている。10才の頃から祖父喜一郎氏に仕込まれたという。天神さんをお祀りするつもりで、売れても売れなくても鳥梅を焼けといわれてきたといい、これさえ作っていれば家の者が安全に暮らして行けると思って続けてきたという。月ヶ瀬梅林の起こりを知るためにも残して置きたいと中西氏は語る。同氏は鳥梅を作ることを「梅を焼く」といい、なぜそういうやり方をするのか判らないが、昔からのホウゴト(決まり事)であるとして、伝えられたやり方を頑なに守って、今も黒梅を焼き続けている。その方法はほぼ以下の通りである。(同氏は、1995年5月に国選文化財保存技術「鳥梅製造」の保持者として認定された。)

その製法

 鳥梅作りは、ハゲッショ(半夏生、夏至から11日目。 7月 2日頃)の翌日から始まる。

<梅拾い>

梅拾い

 先に引用した『和漢三才図会』には「半黄」の梅を用いるとあるが、ここでは完熟して地面に落ちた梅を早朝拾い集める。「アサメシ前に梅一荷」といってテンビン棒にフゴなどをつけて運んだ。落ちたばかりの梅の実は、黄色く色づいて触るとまだ硬い。

<ススマブシ>

ススマブシ

 事前にカマドや鍋の底に付いたスス(煤)を集めておく(今では薪で風呂を沸かす家でススを残しておいてもらう)。カド庭の一郭に丸太3本でミツマタ(モンガリともいう)を組み、これにフジミ(藤と竹で作った箕)を吊り下げる。採ってきた梅の実をここに適量入れ、シュロを束ねた刷毛で水を打つ。こうして梅を湿らせておいてからジュウノウで一杯のススをかけ、ミを前後にゴロゴロとゆすり、万遍なくススが付着するようにする。暫くすると梅の実は黒光りした梅になる。

<カマタキ>

カマタキ

真っ黒になった梅を、割竹を簾状に編んで丸竹で枠をつけたウメスダレ(幅約80B長さ約150B、いわば蒸籠)に丁寧に並べる。このスダレぐらいの大きさで、深さ70Bたらずの穴を地面に掘り、これをカマとする。このカマの底でシバやワルキ(割木)を焚きつけ、ある程度燃えると肥料袋一杯の籾殻を火の周囲に埋まるほど入れる。上に梅を並べたスダレを2枚ほど重ね、丸太を一本横に渡してからムシロを全体にかぶせ水を撒く。カマの中に手を差し入れてはカマの温度を測り、その天候によって焚き具合を調節し、一昼夜蒸し焼きにする。

<乾燥>

乾燥

 燻蒸し終わると、スダレをカドに並べて1週間から2週間天日で乾燥させる。乾いて皺の寄った梅はコロコロと音をたてるようになる。この乾燥の工程では、夕立に遭わないように最も天候に気を遣う。

紅花染め

 こうして出来上がった鳥梅が、紅花染めに用いられる。紅花は山形県最上地方のものが有名である。「半夏の一つ咲き」といって、半夏生に突然にぽっと一輪だけ咲くという。朝露でトゲがまだ柔らかいうちに摘んで、発酵させて、踏んで餅状にしたものが紅餅である。  紅花には紅色素と黄色素が含まれているが、後者が水溶性であるのに対して、前者は水には溶けずアルカリ性の溶液に溶ける。またこれに酸を加えないと染着しない。そこで紅餅を水で何度も振り洗いをして黄色素を出してから、アカザ(藜)の灰汁(アルカリ性)を用いて紅色素を抽出する。このあと鳥梅を湯に一晩漬けて置いた溶液(酸性)を加え、中和させると紅色素は繊細に染着し発色する。この際も徐々に鳥梅の溶液を加えて何度も染着させると深く美しく染まるといわれる。

 月ヶ瀬と山形と遠く離れてはいるが、その風土に結びついた実と花から生まれた成分が、反応しあうことによって紅花染めの得も言われぬ色合いが、糸の中に定着する。まるで両者呼応するかのように、半夏生からその準備は始まる。

 (奈良県教育委員会文化財保存課主査 鹿谷 勲)


協力・資料提供

 中西喜祥氏(国選定文化財保存技術保持者)
 山岸幸一氏(織作家・日本工芸会東日本支部)
 月ヶ瀬村教育委員会

写真

 出水伯明氏
 鹿谷 勲氏

協賛

 松下電器産業株式会社  



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製作著作
社団法人日本工芸会
1998