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陶土(とうど)

平成10年12月15日更新


第23回 日本伝統工芸近畿展図録より転載しました。

(平成 6年 5月 1日発行)


陶土(とうど)

 やきものは、その名が示すとおり、身近にある土の固まりが「ヒト」によって形づくられ、火で焼かれることにより、単なる「モノ」を超えた「美」の光彩を放つ存在となる。  そして、ヒトはこの「美」を長い歳月をかけ、あくなき追求により芸術にまで昇華させてきた。  今回の展示はこのやきものに欠かせない原料である「陶土」に焦点を当て、近畿地方で中世以来の六古窯として著名な「信楽」(滋賀県甲賀郡信楽町)、「丹波」(兵庫県多紀郡今田町)を紹介する。

陶土

 やきものの原料である粘土は、地球上どこにでもある岩石や風化した土を砕いて最も細かい粒子になった土をいい、どのような粘土でもやきものは出来る。しかし、原始時代の土器から現代の陶磁器に到るまで、成形や焼成技術の向上に伴いより高い質の粘土が求められてきた。この粘土のうち、現在「陶土」と呼ばれるのは、風化していない石の状態の陶石を除くやきものの粘土を総称している。

 やきものに使う粘土は大別すると蛙目(がいろめ)粘土・木節(きぶし)粘土に分けられる。

蛙目粘土は花崗岩の風化によってその粘土質が少し移動し堆積した粘土で、灰色で石英の粗い粒が入っているのが特徴で、この石英の粒が蛙の目のように見えるところから蛙目といわれる。有機物が少なく、耐火度が高いため焼き締まりにくい荒い土肌となる。

 木節粘土は母石から遠く離れた所にに流され、水ヒされた状態で沈殿し、木質が腐食して炭化した形で入っているのが特徴で、これから木節の名がつけられた。蛙目粘土に比べ粒子が細かいため、可塑性に富み、やきもの造りに最適な粘土である。土肌は緻密で純白に近い。

 このやきものに適した粘土が豊富にあり、やきものの産地として著名なのが、鎌倉時代以来の常滑・瀬戸・越前・信楽・丹波・備前の6ヶ所、いわゆる「六古窯」(ろっこよう)である。

 このうち、近畿地方に属する信楽・丹波はそれぞれの特徴的なやきものであるが、その源泉である「陶土」に絞って若干の概説を行う。

信楽の陶土

 滋賀県甲賀郡信楽町一帯の中世から現代に至る陶器生産地。中世六古窯の一つに数えられる。中世には砂の交じった山土を使い、集落から離れた山麓で山の斜面を利用した「穴窯」で無釉焼き締めの壺・甕・摺鉢が制作された。桃山時代から江戸時代初期にかけて茶道の流行により茶道具である水指・花生・茶碗などに優れた作品が作られ、明治以降は火鉢、植木鉢、傘立てなど全国的な商品も生み出している。

 桃山時代以前のいわゆる「古信楽」の時代は精選された粘土でなく、実土(みずち)と呼ばれる砂の少ない粘土であるが、篩にかけただけの長石を多量に含む粘土を高火度で焼き締め、白味のある肌に「火色」と呼ばれるほの赤い発色が丹波や備前や常滑などと違う特色である。古窯からみると信楽の東端の紫香楽宮跡付近の宮町あたりから黄瀬(きのせ)、漆原、勅旨地区へと西に広がっている。

 現在は三重県との県境の三郷山付近が陶土の産地で木節粘土が中心である。一方、黄瀬地区の「黄瀬土」は石英・長石の粒を含んだ蛙目粘土で珍重されており、古信楽の火色の発色がよいとされる。今でも2軒の家で少量ながら手掘り、手作業の生産が行われている。

丹波の陶土

 兵庫県多紀郡今田町の中世から現代に至る陶器生産地。中世六古窯の一つである。上立杭・下立杭に窯が集中しており、「立杭」の総称でも呼ばれている。

 中世から近世初頭にいたる経緯は信楽とほぼ同様であるが、信楽に比べ、鉄分を多く含んでおり、焼き締めたものの肌は黒褐色を呈する。江戸時代には赤ドベ・灰ダラ・飴黒・白釉の4種を基本とした施釉陶器が始まり、茶陶と平行して、日常雑器を多く生産した。江戸時代後期には型押・釘彫・筒描・鉄絵・白泥絵・墨流しなど多彩な装飾が開発され、特に徳利の種類が豊富である。現在も登り窯による茶陶・食器類を中心に生産が続けられている。

 総じて、陶土は、古丹波に見られる、山土の蛙目粘土が主体であるが、江戸時代前期頃から木節系の田土が加わり、現在にいたっている。粘土は地元に小量あるものの多くは近隣の粘土を用いている。山土系は四辻(三田市)、田土系は弁天(丹南町味間)が主である。四辻の土は最も多く使われているが弁天に比べ金気が少ないが、水ヒして使われている現在でも粘気に乏しく、腰が弱くて細工しにくい。一方、弁天は腰が強く粘りがあるが、金気が多いので真っ黒に仕上がる。この二種類を製品用途に応じ混ぜて使っている。

陶土の製法

 古代〜中世にかけては山中に豊富にある粘土を選んでそのまま原土を足踏みなどをしてこねて使っていたようであるが、生産の拡大と技術の向上、近世初頭の穴窯から登り窯への変化などに伴い、精選された粘土を求め、原土をふるい(篩)にかけ、水で漉す水ヒ(すいひ)などで精製する方法が江戸時代半ば頃に一般化し、現在にいたっている。

 現在の粘土は専門の業者による機械掘削、機械による水ヒが中心であり、信楽・丹波の場合も例外ではなく、一部信楽の黄瀬地区の2軒が手作業での生産を行っているのみである。無論、工芸作家の場合は自分で土を求め、自宅で精製している人々も多い。

 ここでは、現在もほぼ手作業で行っている信楽町黄瀬の雲林院松斎さん(昭和 2年生)の作業例を概観する。

1、土掘り

 表土を剥ぎ、適当な粘土を鍬で掘る。山の斜面を利用し横から崩して行き、掘ったあとを埋めながら進む。黄瀬では上層の鉄分を含んだ黄色い粘土を「赤」、下層の灰色の粘土を「白」と呼び、層によっては原土のまま使える粘土もある。

2、土漉し(水ヒ)

 掘りあげてきた原土を攪拌機(唯一の機械)に入れ、水を加え攪拌し水量を調整しながら篩を通して三ヶ所の枡に順に入れられ、塵や石の固まりを除き、粒子の細かい粘土になるようにする。この枡から一旦水槽に泥水が貯められ、そこから木製の桶を通してふね(別の水槽)に沈殿させられる。約半月間寝かし、十分沈殿させて、上澄みの水を取りのぞく。

3、土干し

 水ヒされた土は干し場に運ばれ、干される。干し場は丸太や竹で簡単な棚を作り、桟瓦を敷き詰めてある。ここに瓦一枚ごとに●一杯の粘土が円く載せられ、ヘラで筋をつける。瓦やヘラの筋は少しでも早く水分をとるための工夫である。干す天候は雨天では粘土が流れてしまうので不可であり、晴れ間を使う。日数は春秋で3日、夏で2日、冬は凍てついたり、雪が降ったりするので余計に時間がかかる。また、冬場は凍るため、粘土の水分を早く抜くために南向きに板にのせて棚に立て掛けることも行う。

 干し終わると納屋に粘土を運び、大体4貫目ほどにまとめて完成となる。

 雲林院氏の場合手作業なのは、山の粘土埋蔵量が少なく、機械化すればすぐに無くなってしまうことと、機械化に生産コストがあわないことの二点であるという。無論手作業にきめ細かい品質管理と天日干しの利点もあり、この粘土を数年寝かせて使った場合、機械干しに比べ粘土の伸びが良いという。

おわりに

 陶土はやきものに不可欠の原料であるが、国内の産地も良質な粘土が少なくなってきていると聞く。また、精製の技術が発達し、好みの土が使える反面、各産地において特徴が無くなりつつあるようにも思われる。

 上述の手掘りの粘土造りも後継者が無く、行く末が案じられる。出来れば伝統工芸の作家だけでも、地域の粘土の特徴を活かした作品を作り続けていって欲しいものである。

(大阪府教育委員会文化財保護課技師・森 成元)


特別展示 伝統工芸を支える人々

 協力・資料提供   (信楽)
           滋賀県教育委員会
           信楽町教育委員会
           雲林院松斎氏
           宗陶苑窯

           (丹波)
           兵庫県教育委員会
           今田町教育委員会
           丹波陶磁器協同組合
           有限会社のぼり窯
           市野陶山氏

 協賛        松下電器産業株式会社  



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製作著作
社団法人日本工芸会
1998