NIHON KOGEIKAI

青花(あおばな)

平成10年12月15日更新


第22回 日本伝統工芸近畿展図録より転載しました。

(平成 5年 5月 1日発行)


青花(あおばな)

 京都の友禅染の下絵には、江戸時代以来青花(あおばな)と呼ばれる染料が用いられてきた。青花は、露草の一種であるオオボウシバナで道端の露草とは一回り大きい花びらをつけ、滋賀県草津市の草津川沿いの農家で今も栽培されている。

 享保19年(1734)完成の『近江輿地志略』に栗太郡の土産として「藍花紙」が記されてあるが、藍のように黒色に近い状態にまで染め上げるので著者が藍と間違えたのであろう。これより早く貞享2年(1685)には膳所藩に青花運上を命じられ、18世紀には藩の会所が設立され特権的商人により独占的に販売されている(草津市史)ことから、奈良・平安時代から染色や利尿剤として利用されてきた野草とはいえ、草津でも江戸時代の早い時期からすでに商品作物として広く栽培され、『東海道名所図会』や『伊勢参宮名所図会』などでたびたび画題にとりあげられてきた。地元栗太郡下笠(現、草津市)出身の奇行の画人、横井金谷の「金谷道人御一代記』(藤森成吉訳)でも冒頭に「この辺の村は、みんな7、8月ごろからツキクサ(露草)の花を摘み、紙に染めて諸国に売りさばく習いである。」とある。花は青花のほか、つゆ草、月草、ぼうし草、うつし花、地獄花などと呼ばれた。

 青花の栽培は、2月ごろまず種を畑にばら蒔きしたが寒いのでなかなか発芽しない。最近ではビニールハウスの中で蒔く。本葉が4、5枚になる4月上旬に畝を作って、必要とする数より少し多い目を株間15cmぐらいで仮植えする。5月上旬、草丈が10cm余りになるころ水気の多い畑へ50cm間隔で本植する。高さ約1メートルにまで成長するが、これが50cmを越えると倒れないように竹の支柱をしてやる。

 肥料としては、燐酸肥料を植える場所へ基肥にやると、根を強くし花を美しくする。ヒウチと呼ぶ花袋が葉の間から出てくるころ、油粕を追肥として施し、その後も10日に一度ぐらい油粕をやる。ヒウチが見えてから10日ほどたつと花が咲く。ヒウチには、翌日咲く花のつぼみが内包されており、毎朝1つずつ咲くので、ヒウチがたくさんできるように育てる。

 花を摘む時期は、7月中旬から8月中旬まで猛暑の約40日間で、毎朝6時ごろからはじめ日が高くなる10時ごろには摘み終わらないと、昼には花がしぼんでしまう。近頃は家事から解放された年寄の仕事のようになっているが、最盛期には嫁や孫など家族あげて手伝う。花は毎日咲き青花が終るまで来る日も来る日も休みはなく、もうやめたいと何度も思うので、地獄花と呼ばれた。以前は嫁に来るとどこの家でもたずさわらねばならぬ農閑期の仕事であった。直径20cmぐらいの花摘み籠にいっぱい摘むのに1時間近くかかる。黄色い花粉が花弁といっしょにとれやすく、これはあとで篩にかけるがすべて除去することはむづかしい。花粉が混じると良い色に染まらない。

 摘みとった花は、両手の指で何回も何回ももむと青い汁が出てくるので、厚手の綿布に包んで絞り、またもんで絞る。絞りかすは桶に入れ重石をのせて締め木でしぼり採る。花籠1杯の花から20cc余りの花汁がとれ1束の紙を染めるのに約8,000ccの花汁が必要とされる。

 溜った青汁は、刷毛で美濃紙に染み込ませる。100枚1束の美濃紙を4枚ずつに分けて12組(48枚)作り、これを単位として表裏を染めていく。染めた紙は天日乾燥させる。むしろ1枚に並べることのできる数が12組で、風に飛ばないように竿竹などで押え、雨にあたるとすべて流れ落ちるので夕立に気を付け、染めては干す。これを70〜80回繰り返し、100枚100gであった紙が400gになるまで染め続けたあと、4枚1組を2枚ずつに分け、96枚を別紙に包んで仕上げる。朝摘んだ花はその日に絞り、花汁はその日に染めてしまわないと美しく仕上がらない。むらなく染まっているのが良いとされ、できあがった青花紙は塩昆布のようなにおいを放っている。かつては検査があり、2枚ずつとりだして透かしてみて青黒くむらなくそまっていると一等花、黄色い花粉がはいっていると等級が落ちた。8月末、花が咲きはじめて40日ほどたつと黒い種ができている。

 地元には、青花紙を扱う花屋(仲買い)が6人ほどいる。「花買いはこわい、損をすることがある。」という。花屋は農家をまわって青花の栽培を依頼し、出来高にみあった量の美濃紙を配って歩く。その後何度か農家を訪ね、青花紙ができあがるころ集めてまわり、昨年の買値を基準に代金を仮払いしておく。花屋仲間である程度買値を相談するがこれが協定価格にならず、いくらで売れるかはその年によって異なる。卸し先は、京都の画材屋が多いが、東京や名古屋などの他の地方も量はわずかながらあり、1人の花屋が何カ所かの卸し売り先を確保している。同じ卸し先へ他の花屋が売りにいった場合、一番安かった卸し値がその店の取引価格となり、また依頼したおいた農家が別の花屋へ売った場合、紙代が損になる。たくさん栽培している農家はたいてい複数の花屋へ売るという。夏の終わりには、残りの青花紙を受け取りに行き、そのとき代金を精算する。したがって買値と売値の差があまりなく、花屋が大儲けすることは少ないという。

 友禅の下絵を描く人たちは、こうした画材屋などから青花紙を買い求める。これを小さく切って絵皿に落とし、紙に染み込んだ青汁を水で戻して絵筆で描く。青花紙を2年、3年とおいておくと色は濃くなるが、水洗いしたときそれだけ落ちにくくなるという。

 青花紙の生産農家は、現在10数戸となってしまい、草津市教育委員会ではこれの普及を図るため毎年見学会を催している。近代の推移をみると、明治11年、北山田で25軒が150束、木ノ川で2軒が830束を生産し、ともに京都へ出荷している。明治36年ごろ69戸44年85戸600帖、大正5年22反、10年45反、昭和8年22反1,320束であった。 (滋賀県市町村沿革史)

 なお、展示の鉢植青花と青花紙は草津市木ノ川町の木村しずのさんの協力によるものです。

  (長谷川嘉和)


特別展示 伝統工芸を支える人々

 協力・資料提供   滋賀県教育委員会
           草津市教育委員会
           滋賀県立近代美術館
           中村久郎滋賀県立短期大学助教授
           京都府立総合資料館
           木村しずの氏



表紙へもどる

製作著作
社団法人日本工芸会
1998